掲示板

大沢久美子撮影

冬の季節でありがたいものは?

それは、無償の太陽光線が一番です。大人げない答えだけど、まったく偽りのない答えです。

大寒波、コロナ、インフル、三つ巴

12月27日(火曜日)、起き立てにあって寒気は、いくらか緩んでいる。しかし、冬本番の寒気はこの先に訪れる。このことをかんがみれば寒気の緩みは案外、新たな寒気のエネルギーのたくわえの時期なのかもしれない。日本の積雪地方にあっては、すでに大雪に見舞われて、いろんな雪害を被っている。連日にわたる新潟県の柏崎市や長岡市における、車の立ち往生報道は、今なお生々しく甦る。起きて、パソコンを起ち上げると、この見出しが真っ先にわが目をとらえた。「アメリカ大寒波 街は冷凍庫に あらゆるものが凍り外出危険」(12/26(月)19:13配信 テレビ朝日系・ANN)。記事全文を読んだけれど、引用するまでもなく、大寒波の報道である。ただ、新型コロナウイルス報道とは異なり、「第何波」という、表現はない。しかし、期間限定の大寒波に見舞われている証しではある。さて、新型コロナウイルスは、日本にあっては現在、「第8波」が日々増勢の途中にある。それゆえに、天辺では一日の感染者数がどれほどの数になるのかと、恐怖つのるばかりである。この報道に輪をかけてこのところ、中国の感染者数にかかわる報道はただならぬ状況にある。まるで、川中の堰が一挙に大崩れしたかのように、一日の感染者数が百万人とも二百万人ともいう報道の仕方である。もちろんメデイアに罪はなく、実態が分からぬゆえであろう。なぜなら、中国の新型コロナウイルスにかかわる報道ではこれまでも、感染者数などに実態隠しが疑われていた。なお、実態は藪の中である。しかしながら現在、中国における蔓延の勢いは確かなようである。だとすればいずれは、日本への新たな波及が危ぶまれるところにある。翻って日本は、インフルエンザ流行の季節でもある。結局、年の瀬にあって世界の国々は、大寒波、コロナ、インフルの三つ巴現象に見舞われている。人間、もとより抗(あらが)えない現象に、少しでも抗って生きなければならない。ほとほと、一大難事業である。緩んでいた寒気がからだに沁みて、冷えてきた。弱虫の私は、寒気に抗えず、結文を決断した。熱源をたずさえる夜明けの朝日は、いまだ暗い所に隠れている。

歳末風景、歳末商戦

12月26日(月曜日)、いよいよ令和4年(2022年)の最終週の夜明け前を迎えている。土竜(モグラ)のごとくにすばやく寝床に潜っていたら、「暖を貪り」起き出しが遅れてしまった。そのため慌てふためいて、パソコンを起ち上げている。もちろん脳髄には、塵(ゴミ)さえなく空っぽである。こんな実のない文章を書くために、ち上げたのではない。浅ましくも、続を断たないためにすぎない。しかしながら、こんな文章では継続文にはなり得なく、いたずら書きの誹(そしり)は免れない。イブそしてクリスマス共に過ぎて、街中の商戦は入れ替わり、本番の歳末商戦たけなわとなる。いや、きのういつもの大船(鎌倉市)の街へ出向くと、入れ替わらず抱き合わせの商戦で、それぞれの店舗は買い物客でごった返していた。多くの学び舎は、すでに冬休みに入っている。そのせいかいつもと違って、多くの若者たちも繰り出していた。まさしく絵のような、歳末商戦風景であった。今時、テレビショッピング花盛りの世とはいえ、生きるために人間が繰り出す、子どもの頃から馴染みのある歳末風景である。おとなの財布の中の金銭は、未練を残しながら減り続けるけれど、一見、おとなにも楽しい風景である。歳末商戦はやはり、買う方にもいつもの買い物とは違って、お金が減る割にはワクワク(感)するところがある。おのずからそれには、「新年・正月」における祝膳や一家団欒が控えているせいであろう。逆に売る方は、このワクワク感がつけ目である。華やぐ売り場は、日本の国にはこんなにもいろんな品物があるのか? と、わが目はキョロキョロするばかりである。歳末商戦は、人間の知恵が産み出した商品の花盛りである。余程、「買うまい」という、意思を強く持たなければ、私はイチコロに売り手、すなわち商戦に負けそうである。それでも、歳末商戦を日本古来の「お祭り」と思えば、存分に楽しめるところはある。なぜならそれは、わが心中に織り成す「買うか、買うまいか」という、駆け引きの楽しさでもある。加えて、買い物客の渦に塗れる楽しさでもある。きょうは文章の体を為さない駄文に、浮かぶままのネタを付け足しして、結び文とするものである。冬至が過ぎて、夜明けが早くなっている。私は、朝御飯の支度に焦っている。

押し迫った年の瀬、一年を顧みてのわが心境

12月25日(日曜日)、起き立てのわが脳髄には、こんなことが浮かんでいる。物事には、押し迫るという表現がある。この表現を用いれば、令和4年(2022年)は、いよいよ残り一週に押し迫る。年の瀬という川の流れは河口へ辿り着いて、大海に呑み込まれて淡水は鹹水(かんすい)、すなわち海水に変わる。単なる書き出しだから、こんなことはどうでもいい。六十(歳)の手習いにすぎない私は、それゆえにほぼ毎日、下手な文章を書き続けている。だから苦心惨憺、雲を掴むほどの困難事である。野球の場合はファン、サッカーの場合はサポーター、大相撲の場合は狭義にはタニマチ、すなわち競技(者)には総じて観客という、支持者が存在する。これらになぞらえれば作家(文章)には、読者という支持者が存在する。確かに、それぞれに言葉は異なっても、支持者がいてこそ競技(者)は、永続的に存在する。なぜ、こんなことを書いているの? と、自問する。すると、桁違いではあるけれど、文章を綴るわが心境が、ちょっぴり競技(者)の心境に似ているからである。すなわちわが文章は、書けば何人かは読んでくださるという、ご常連様の優しさに支えられている。もとより義理を恃(たの)んで、友人、知人へ「読んでください」と、頼み込んだゆえのご常連様だから、ファンやサポーターとはまったく異なるものではある。しかしながら私は、それらの人の優しさに支えられて、長く文章を書き続けている。確かに、ご常連様の恩恵がなければ、私は文章を書く気にはまったくなれない。このことではたとえ数名になろうと、掲示板を開いてくださるご常連様は、わが文章継続のためには大事きわまる人たちである。押し迫った年の瀬にあって、書かずにはおれないわが心境である。私は日々、掲示板に表記のカウント数を数えている。なぜなら、カウント数が止まれば、即私は、文章は止めるつもりだからである。確かに、下手な文章ではあっても、書くことはつくづくわが心身に堪えている。私にはご常連様の支えが満員の観客、すなわちファンやサポーター同然となっているという、思いがある。この文章は年の瀬押し迫るなか一年を顧みて、ご常連様にたいしあらためて、感謝と御礼の心を添えるものである。起き立てにあって、寒気も気分も緩んでいる。こんなことは、めったにない。

年の瀬の追憶

12月24日(土曜日)。令和4年(2022年)の年の瀬は、大晦日(12月31日)へ向かって、流れ着くところにある。大晦日に年越しそばを食べて、響いてくる除夜の鐘を聞き、目覚めれば夜明けは、新しい年(令和5年・2023年)の元旦となる。年の瀬迫るきょうあたり、わが心中には子どもの頃の新年・正月準備の家事光景がよみがえる。一つは、わが家族に加えて、近くに住む異母長兄の家族うちそろっての餅つきである。当時のわが家の餅つきは、土間に石臼を据えて、周りに男性連が並び、「ヨイ、ヨイ、ヨイ」の掛け声唱和の長い杵棒つきだった。つきあげほやほやを上がり框(かまち)に待って、すばやく丸餅や鏡餅に手丸めしたのは、居並ぶ女性連だった。餅つきが済むと、一気に正月が近づいた。家人はそれぞれに一年の終いごとと、正月準備に忙しく駆け回った。私は里山へ入り、飾り餅に挟む楪(ゆずりは)を採りに行った。飾り餅には、母が新米を半紙に包んだおひねり、小さな河内みかん、さらには自家製の吊るし柿が、母の手で飾られた。冬休みは夏休みと違って短いせいなのか、宿題はなかった。だから私は、存分に家事手伝いをした。釜屋(土間の炊事場)は、身に堪える寒さだった。しかし、家族の温もりがそれを打ち負かし、正月準備は万端ととのった。年越しそばは、自作の蕎麦(そば)を母の手打ちそばだった。現在のわが年越しそばは、日清の「カップラーメン」である。それでも、食べていると眼前に、こよなく父と母の面影がちらついてくる。夜明け前、私は寒さに震えて、年の瀬の追憶文は、あえなく結文となる。こののちは、面影を懐かしく偲んで、心の中に「暖」を取るつもりである。

高橋弘樹様へ、感謝!

お久しぶりです。高橋様のエールがないと孤独になり、書く気分が殺がれます。歳末にあたり、御礼申し上げます。人間の楽しみの一つは、出会いです。

○前田さんへ『ユズ風呂』の感想です○

ぼくだったら、みかんやほかの柑橘系の実を浮かべていたかもしれません。
邪道ですね(笑)。

♪古閑さんへメッセージです♪

現代文藝社の掲示板がリニューアルされてから、初登場されたと思いましたが、大沢先生がおっしゃる通り、花々は素晴らしく、今後も楽しみです♪♪

♪大沢先生へ『ハプニング』の感想です♪

なんとも心温まる場面ですね♪♪
人と人とのふれあいは、どんな時代になっても必要だと思っています。