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坂本弘司撮影

連載『少年』、三日目

少年の家から100メートルほどの先には、往還(県道)を挟んで同じ「田中井手集落」に住む、古田マキさんの家があった。マキさんは、少年には訳知らずの独り暮らしだった。庭の一角には裏山の地中から、冷たい山水が滾々と湧き出ていた。特に夏休みにあっての少年は、バケツを両手に提げて、ほぼ毎日もらい水に出かけた。「ごめんください。水をもらいに来ました」と大声を上げて、勝手に汲んだ。道々、溢れ出る水を零しながら持ち帰った。冷たい山水のもらいは、ソーメンを冷やすための、母への家事手伝いだった。隣家の遊び仲間の子どもたちも勝手に汲んでは、これまたほぼ毎日持ち帰った。少年から見るマキさんは、もうかなりのお年寄りだった。そのうえ独り暮らしのせいか、家の中はいつもひっそり閑としていた。少年はマキさんのお声で、「はい、自由に汲みなっせ…」という、許しを得ることはなかった。家の庭中には、時季物のニガウリがぶら下がっていたり、赤茶けたカボチャが転がったりしていた。家の周囲には、わが家や隣家にはない、高木の梨の木と枇杷の木があった。台風や大風のときには、少年と隣家の子どもたちは共に納屋奥にしゃがんで、落ちるやいな脱兎の如く拾いに走った。マキさんの家の裏山へ登ると、山下集落の人のクヌギ林があった。林の中には、青空に白煙たなびく炭焼き窯があった。少年は、いくつかのクヌギの幹を強く足蹴りした。クワガタがパラパラと、足もとの笹藪に落ちた。笹藪を分けて拾い上げると、クワガタは鋭い角をぎりぎりに立てて抵抗した。それでも少年は構わず、クワガタの角間に小指の先を入れた。少年は、クワガタの角の力を試してみたかったのである。クワガタは死ぬ物狂いで、少年の指先にくらいついた。「痛てて……」、少年は慌てて手首を強く振った。クワガタは少年の指先から離れて、笹藪のどこかへ飛んだ。少年の指先には、出来立てほやほやの鮮血が滲んだ。少年は、バカなことをしたことを悔やんだ。少年は、秋にはドングリを拾った。椎の木の下では、炒って食べるために椎の実を拾った。雑木林の中では、蔓を頼りにして山芋を掘った。あちこち探し回して見つけは、山柿、山ぶどう、木通(アケビ)、郁子(ムベ)などを千切って食べた。少年は、山の冷ややかな空気もたくさん吸った。里山は少年の家からごく近くにあり、突っかけ草履でも登れるほどに馴染んでいた。クヌギ山に入らず左に曲がれば、狭い段々畑が二、三枚あった。そこには季節を変えて、サツマイモ、アズキ、ジャガイモ、エダマメ、トウキビなどが植えられていた。マキさんの家の脇には一本の往還(県道)が走り、一日に何往復かの定期路線バス(産交バス・九州産業交通)と、馬車引きさんが引く馬車の主要道路を成していた。村人はそれらが通ると路肩へ寄り、通り過ぎるまで道を空けた。里山の奥に入ると谷あいには一か所、小さな溜まりがあり、山鳥たちの格好の水浴び場となっていた。同時にそこは、少年にとっても、とっておきの場所だった。溜まりにはメジロやウグイスなどが、水浴びに舞い降りた。少年はそれを狙って、長く飼い慣らしている愛鳥のメスのメジロを囮(おとり)に入れたメジロ籠を、溜まり近くの小枝に吊るした。メジロ籠には、鳥もちを満遍なく塗ったくった細木を差した。鳥もちのついた細木の先には、小鳥が好む熟柿やツバキの花をすげた。仕掛けを終えると少年は、20メートルほど離れた高木の陰に身構えた。メジロが鳥もちにバタつくとドドッと駆けて、神妙に鳥もちから外した。メジロはともかく、利口なウグイスは少年だけでなく、隣家の遊び仲間の子どもたちのだれにも、たったの一度さえ捕らえることはできなかった。腹いせに子どもたちと呼び合うウグイスの名は、「バカ」となっていた。

連載『少年』、二日目

少年の家は、内田川の川岸に建っていた。川をじかに背負っていた。家は山背に建てば、四季折々の山の移ろいが楽しめる。そのぶん、山崩れが隣り合わせにある。川背に建てば、春先の水面の陽炎に目を細めて、瀬音に身を委ねることができる。だけど、洪水の恐怖に慄くこととなる。少年の家は内田川の水量を頼りにして水車を回し、精米業を営んでいた。内田川が精米業を恵んでなりわいが立ち、大勢の家族はつつがなく暮らしていた。矢谷、滝の下、二又瀬、深瀬などにも水車が回っていた。水車の音は、のんびりと「コトコト、コットン」とか、「ゴットン、ゴットン」ではなく、轟音を唸らして速回りをしていた。水車の回転は水量の加減で変調し、水量しだいで速くも遅くもなった。いっときも家族は、水車の音に気を懸けていた。戸外の取水口には、水量調節機能の「さぶた」がしつらえてあった。水車の回転音に変調を感じると少年の母は、矢玉のごとく飛び出し、一目散にさぶたの所へ走った。水車の家内仕事は、主に母の役割だった。水車は、母の動きと手捌きで回っていた。少年の母は、水車番の家中のエンジニアであった。母は大家族を支え一方では、せわしなく回る精米機や製粉機などをエネルギッシュに操っていた。母の働きぶりを見る少年は、母は何に憑かれてこんなに働くのだろうかと、思った。母の左の手首には、大きな傷痕があった。それは少年に記憶が芽生える前に、製粉機のベルトに巻き込まれたおりのものと言っていた。大参事なのに、少年には母の事故の記憶はない。しかし、いつもの母は、怯むことなく、働きどうしだった。少年は、このことだけでも「母は強い」と、実感した。水車は大水の日などでは恐怖まじりに、真っ先に村人の口の端にのぼった。どこどこの家が水に浸かったとか、もう危ないとか、村中の被害状況は一番先に、あちこちの水車の家から伝わった。その証しに地区の消防団は、先ずは水車の家に見張りに張り付いていた。周囲の山並みは、少年の心を離さなかった。はるかに望む連山の風景もあれば、庭先からちょっと入るほどに近い里山もある。内田村は自然界の織り成す山・川のなかにあって、村人は農山村の産物で暮らしを賄っていた。少年にとって山は、風景を愉しむ山と、生活の場としての山に、分かれていた。眺望を愉しむ山は、東方遠くに県境の峰を望み、近くには里山の雄「相良山」を眺めていた。少年の家から相良山は、内田川を挟んでいた。川向こうには、川岸伝いに平坦な田んぼが連なっていた。やがて田んぼは狭隘な畑地へ変わり、その先はなお狭い段々畑の重ねを成していた。段々畑は、相良山の山裾へせり上がっていた。相良山の裾野は地元・相良地区共有の村山を成し、人工の耕地となり一面、栗林になっていた。遠峯の稜線は主に国有林の杉林になり、下る所の合間には孟宗林が混じり、空の色と山の色をくっきり分けていた。少年の家から眺める相良山は、典型的なおむすび形で、里山の風情を漂わせて、少年、家族、村人を和ませていた。生活の場の山は、少年の家が加わる近くの山下集落の山だった。ここにもまた、この地区の共有林があり、シイタケ目当てのクヌギ林と、炭焼きや薪取り用の雑木林が山を成していた。竈(かまど)の薪(たきぎ)は、ほとんどこの共有林から取り、ようよう背負って、ヨロヨロと持ち帰った。

連載『少年』、一日目

4月24日(月曜日)、ほぼいつもの時間に目覚めて、起き出している。しかし、現在の心境は、普段とは様変わっている。わが人生は、すでにカウントダウンのなかにある。未来はなく、過去にしがみついても、もはやいっときである。私は聖人君子ではなく、やはり心寂しいものがある。私は定年後の有り余る時間を考慮して、定年(60歳)間近になると、文字どおり文章の六十(歳)の手習いに着手した。手元には何ら資料(記録)もなく、浮かぶままにほぼ一日がかりで、書き殴りの文章を書き終えた。ところが、苦心したことがもったいなくて、全国公募誌に応募し、急いで最寄りのポストへ投函した。すると、2000年2月・第234号の目次にわが名を見つけた。そして、こんな表彰に浴していたのである。第72回コスモス文学新人賞奨励賞(ノンフィクション部門、「少年」(99枚)、前田静良 神奈川県。「ひぐらしの記」には場違いなので、私は大沢さまにお許しを請うた。私は2000年9月に、六十歳で定年退職をしている。焦る気持ちで、『少年』を読み直し、身勝手にもこの先長く、連載を決めたのである。これまで私は、だれも読まないたくさんの文章を書いてきた。もちろんこのたびの連載も、読む人はいない。しかし、わが文章手習いの原点であり、余生短いための焦燥感もある。心して、『少年』の連載のお許しを願うものである。『少年』、連載一日目である。内田小学校一年生になったばかりの少年は、わが家に向かって石蹴り遊びをしながら帰っていた。いつ帰り着くやらあてどもない。緊張した入学式から日が経って、少年は学校生活に馴染み始めていた。石がコロコロと転げた。転げて、道路の路肩の草むらに止まった。少年は大きく息を吸った。また少年は、石を蹴った 。追っかけて走ると、背中のランドセルがカタカタと鳴った。ランドセルは、まだ少年の背中に馴染んでいない。少年が走るたびに、ランドセルは上下左右に跳ねて、よそごとのようにソッポを向いた。蹴った石が、こんどは遠くへ飛んだ。昼間の「仏(ほとけ)ン坂」は、少年の家が左手に見えて、少年から恐怖心は取り除かれていた。一年生の帰りを待つ母の顔が浮かんだ。少年は気ままに石を蹴って、わが家との距離を詰めていた。そのたびにランドセルの中で、真新しい教科書は、あちこちへぶつかった。教科書は少年の遊び心に、とばっちりをこうむった。昼下がりを歩く少年の下校姿は、眠気を誘うほどにのどかである。少年の目に太陽の白い光が、石がら道に照り返り、少年はまぶしさで目の上に手をかざした。「内田川」の川面に沿って、村を貫く一本の県道がくねくねと曲がっている。少年の家と学校を結ぶ通学路は、この道以外にほかにはない。周囲を山並に囲まれた、当時の熊本県鹿本郡内田村(現菊鹿町)は、山背の鄙びた農山村の佇まいを見せていた。内田村は県の北部地域に位置し、遠峯は熊本県、福岡県、大分県との県境をなしている。現在の菊鹿町は、旧内田村、旧六郷村、そして近隣の菊池郡旧城北村のとの三村合併のおりに菊鹿村となり、十年後に町名に変えたものである。村の中央には一筋の川が流れていた。村人は、内田川とも、「上内田川」とも、呼んでいた。山あいから流れる川は、蛇行を繰り返してその先は大海へ向かう。内田川は途中、菊池川に呑み込まれて川の名を消して、有明海へとそそいでいる。村の南に開けた鹿本・菊池平野は、平野とは名ばかりで、狭い盆地の中に田園風景を広げていた。北の山部に向かっては、猫の額ほどの段々畑が重なり合い、山裾を踏めば奥深い国有林へと連なっている。村には自然界の息遣いだけが聞こえて、人の暮らし向きはひっそり閑としている。

感激しています

 ご近所で頂いた藤の花、義母様の筆跡の掛け軸、床の間の装いは義母様をお迎えする洋子さんの気持ちが伝わってきて、胸がいっぱいになりました。元気に泳ぐ鯉のぼりは五月の風物詩ですね。そして、義母様の元気な姿はもう何ものにも変えがたいです。 

追加です

 すみません。途中で途切れてしまいました。続きです。
 今、色々な花盛りですね。お隣から藤の枝をいただいたので、床の間に飾りました。掛かっている軸は義母の書です。亡義父は退職後自宅で書道塾をしており、子どもたちに教えていました。義母も短期間ですが近所のお友達と一緒に習っていてそのときの作品です。
「人生感意気(人生意気に感ず)」という作品です。なかなか元気な字だと思いませんか(笑)
 もうすぐゴールデンウィークですが、毎日が日曜日の私たち、先日、熊本県北の小国町杖立温泉に鯉のぼりを見に行ってきました。杖立川の上を多くの鯉のぼりが風に吹かれていました。本当に泳いでいるみたいです。

洋子さん、投稿ありがとうございます。

 義母様のお元気なご様子に嬉しくなりました。久しぶりにご自宅にお帰りになれて、皆様とお会いできて良かったですね。今回は、前田さんの解説付きで、より一層の喜びに浸れました。その折りには、私も新鮮な竹の子を沢山送って頂き、春の味と香りを堪能いたしました。

御礼

平洋子様。お義母様(恩師)の近況報告と元気なお姿(写真)を賜り、感謝にたえません。ありがとうございました。この先は、恩師がうら若い受け持ちの頃の呼称、「渕上先生」で記します。心中に根づいている懐かしさを、いっそう強く蘇らせるためです。渕上先生のお母様は、わが母の里・矢谷集落における、共に生涯にわたる幼馴染の仲の良い同級生でした。生誕地はいくらか離れて、お母様は尾上地区、わが母は井尻地区です。わが記憶によればお母様のお名前は、「たか子様」だったと思います。しょっちゅう母が、「たか子さん、たか子さん」と、言っていたと記憶しています。記憶間違いであれば、御免なさい。さらには、渕上先生とわが長兄は同級生、これに留まらず四兄にも、仲の良い同級生がおられました。お名前は、こちらは間違いなく、「たえ子様」でした。私の知るお母様、渕上先生、たえ子様は、村一番の美人系で、名を馳せていました。このまえお電話したおりの洋子様は、こうお話されました。「義母が里へ行ってみたいと、言ってます」。私はこう応えました。「お里は、尾上ですね。ご実家は、長い上り坂の右脇にありました。そこは、精米済の米の配達のおり、最も汗をかいて立ち止まり、二人で一息ついたところです」。四兄が米俵を積んだリヤカーを引き、私は後ろから懸命に押していました。私は、(渕上先生、おられるかな?)と、四兄は(たえ子さん、おられるかな?)と、期待を弾ませて、チラッと家の中を見遣っていました。洋子様、今度は渕上先生の願いを叶えてやってください。たぶん、無理かもしれません。もし、叶えられたら、身勝手ながらまた、ご投稿文をお願いします。末尾になりましたけれど、早々の「タケノコ、ふるさと便」を賜り、重ねて御礼申し上げます。柔らかで滋味強く、鱈腹食べました。揮毫の掛塾は、名人・ご主人の作ですね。生け花、鯉のぼり舞う、ふるさと風景もいいですね。添えられている写真のすべてを目を凝らして、篤と眺めています。

早くも夏?

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まだ四月というのに暑い日々が続いています。幸い風があり乾燥しているので、熊本の夏特有の蒸し暑さは感じずにすんでいます。
新型コロナの発生が落ち着いているので、先日義母の一時外出がかないました。長野に住む夫の弟も久しぶりに帰省し、義母と息子・娘たちとの団欒のひとときを持つことができました。ほんの数時間でしたが、親子の時間を楽しむことができました。前回は車椅子のままでした。

死期が近づいている

4月22日(土曜日)、5:02,天気模様のわかる夜明けはまだ先である。現在は、朝日の見えない夜空である。もう、朝日が見えてもいい時間帯である。曇り空の夜明けになるのかもしれない。もはや、わが文章はネタ不足である。「ひぐらしの記」は継続が断たれて、頓挫になりそうである。文章が書けなければ、この先の起き立ての時間はなんで埋めようかと、思案をめぐらしていた。挙句、本棚からかつて投稿したことのある全国公募誌「コスモス文学」(コスモス文学の会・長崎市)を取り出した。そこれには「第237号・2000年5月、同人誌」と、記されていた。この冊子はもはや、記憶から遠ざかっていた。366ページを成す、分厚いものである。誌面のジャンルには、「随筆・ノンフィクション」と、記されている。今号の筆者数を粗く数えてみると、80人ほどが名を連ねていた。そして、それらの作品数は、一人で数編の人もあり、面倒くさくなり数えるのを止めた。これらの中には随筆部門にあって、わが投稿文の三編があった。ちなみにそれらの作品は、『父と母』(14枚)、『ふたりの旅』(7枚)、『パソコンが届いた日』(11枚)である。枚数とは、投稿文が400字詰めの原稿用紙の数(換算字数)である。私の場合は同人になった思いはなく、行き当たりばったりに何度かの応募を試みている。ところが幸運にも一度、随筆部門で賞にあずかり、そして最もうれしかったことでは、ノンフィクション部門で、「コスモス文学新人奨励賞『少年』(98枚)を戴いたことである。久しぶりにそのおりに届けられた大きな額入り賞状を眺めていると、平成12年2月一日と記されている。ノンフィクション部門への投稿は一度切りである。随筆部門は、ほかにも二、三度ある。もちろん、お金をかけての投稿ゆえに見切りどきが肝心であり、文章手習い初めの一時期のことにすぎない。今朝は、『父と母』だけを読み返した。ちょっぴり自惚れてみよう。良く書けている。こんな思い出に耽るようでは、いよいよわが死期が近づいている。もちろん、「ひぐらしの記」にはふさわしくない。しかし、ネタ不足を埋めて、日を継いで書き連ねて見たくなっている。もちろん、みずから駄文とは言いたくない。なざなら、わが苦心惨憺の証しである。だれも、読んでくれる人はいなかった。だから無念、もったいない気分横溢である。きょうは埋めても、明日の起き立ての時間は埋めようない。過去文の連載しようかな…。夜明けてみれば、朝日の見えない雨嵐である。

♪大沢先生へメッセージです♪

古参の薔薇、そんな前からあったのですね! やはり薔薇は、赤が1番だと思いました◎
野菜の豊作、花々の開花&満開の時のような気分ですね♪♪♪♪
キジですが、幼年期から祖父母宅に剥製があり、親しんでいたのですが、YouTubeで初めて鳴き声を聞きました♪
鳴き声を録音して、エコーを効かせる等編集するとおもしろい事になりそうな感じがしました♪♪
キジは、ニワトリぐらいの大きさの鳥ですが、逃げ足は速いのでしょうか??
キジの姿の撮影が大成功します事を心より祈っております◎◎