坂本弘司撮影 8月1日(火曜日)、デジタル時刻は、3:09と刻まれている。ウトウトさえにも寝付けず、日を替えて0時過ぎあたりから、寝床で煩悶に苛まれていた。雨戸を閉めていない寝室の寝床に寝そべっていると、まるで間欠泉のごとくに稲光が煌めいてくる。稲光をいくらか後追いして、ゴロゴロと雷鳴が轟いてくる。自然界の営みは、わが身体の機能(器官)の不具合を超越して、真夜中をも構わず光と音をもたらしている。就寝のおりの私は、目から眼鏡を外し、両耳から集音機を外している。すなわち、視覚および聴覚不全の状態にある。ところが稲光と雷鳴は、共に認知される。稲光と雷鳴は、わが目と耳の機能テストみたいである。幸いなるかな! テストの結果は、まったくの不全ではなく、機能(器官)の衰えの証しである。突然の稲光と雷鳴は、人間心理に様々な恐怖心をもたらすところがある。私は仕方なく起き出して、パソコン部屋へ移った。まずは、窓ガラスに掛かるレースのカーテンを撥ね退けて窓を開け、右手を空中へ延ばし、掌をいっぱいに広げて左右に揺らした。雨粒は当たらなかった。すぐに、一基の外灯の照らす道路へ目を遣った。道路は、濡れて光っている。雨の跡の確かな証しである。私の場合、稲光と雷鳴に出遭って身近なもので最も恐れるのは、突然の停電である。停電になればそれを恐れて事前に、パソコンの電源を切るかどうかの判断が迫られる。ところが、私は切らずにパソコンを起ち上げ、この文章を書いている。このところの雨(天水)無しにあっては、「生きとし生きる者」、いや、草根木皮のすべてにいたるまで、いのち枯れ枯れの状態にある。すると私は、矛盾するけれど待ち焦がれていた雨をもたらしてくれた稲光と雷鳴にたいし、それらの代わりに御礼を述べたい心地にある。現在、稲光と雷鳴は止んで、涼やかな夏風と朝風をも恵んでいる。しかしやはり、いっとき身の縮む思いがした8月初日の未だ夜明け前にある。夜が明ければ、予約済の歯医者通いの準備に慌てふためくこととなる。端から休むつもりだった、8月初日の戯れ文である。 7月最終日(31日・月曜日)、清々しい夏の朝が訪れています。ウグイスはいまだに朝っぱらから、高音を囀り続けています。ところが、先日はセミの初鳴き声を聞きました。セミの声に出番を奪われるウグイスの声は、この先、日ごとに切なさを帯びて、やがては夏の朝から消え去ります。それでもウグイスは、セミを妬むことはできません。いやもとより、命短いセミを妬むことは罰当たりです。なぜならウグイスは、半年ほども生存に浴して、もしかしたら再び春の季節を迎えることができます。一方セミはひと夏さえ、いや日数を数えるほどしか、生存は叶いません。セミの命は、短い命の代名詞として、人間界に定番を成しています。ウグイスの高音、そして雨無しの暑い夏、どちらも自然界の営みと思えば、素直に悦び一切腹は立ちません。腹立ちのすべては、自分自身に向かっています。すなわち私は、自分自身に克てず、長い夏休みというより、もう「ひぐらしの記」の継続は止めた! と決め込んで、文章を書かない安楽を貪り続けていました。きのうは老いた妻の手を取り、ひとり娘とひとり孫娘の住む、神奈川県横須賀市浦賀町における「夏祭り見物」へ出かけました。炎天下、神輿担ぎの人たちの力感溢れる姿を観続けていました。すると元気をもらい、この文章に漕ぎつけています。しかしながらまだ、ヨタヨタヨロヨロ気分で、この先は書けません。鳴き続けていたウグイスの声がなぜか、バッタリと途絶えています。切ない相身互い身、なんだかウグイスにエール(応援歌)を送りたい心地です。 古閑さん、御返事の御投稿どうもありがとうございます*(^o^)/* 高橋さん投稿有難うございます。花は、左から、鹿の子(かのこ)百合、サンパラソル、バラ、です。 大沢さん投稿有難うございます。囲碁はそれ程好きではなかったのですが、今では毎日のように地区センターへ行って仲間と囲碁を打っている、何処でどう変わるか分からないものですね。当時、今のように囲碁が好きであれば藤沢先生とも多少囲碁の話ができたかもしれません。 古閑さんの苦い記憶か、懐かしい記憶か、おかしなものですね。呼び出されてサイン入りの著書をいただいても、興味が無ければ宝の持ち腐れですね。その持ち腐れの宝物が、今は古閑さんのかけがえのない趣味になっているのですから。人との出会いもまた不思議なもので、腹が立ってたまらなく嫌な人だったのにもかかわらず、かけがえのない友人になっていたりするのです。だから歳月を重ねて、長い年月を生きてくると、どこでどんな風に変わるかわからないので、悪く思わないように自分に言い聞かせています。 ぼくは、囲碁はまったくわからないのですが、棋聖の藤沢先生から直接サイン本をいただいたなんて、とんでもなく素晴らしい事でしたねーー☆*(^o^)/*☆ 今回の古閑さん邸『庭の花』の画像は、1枚目が百合、2枚目がわかりません、3枚目は牡丹は春の花だと思いますので、芍薬でしょうか? 大沢さんの投稿で、囲碁の本をくれた、ということで思い出しました。私も囲碁棋士の藤沢秀行先生から囲碁の本をもらいました。 7月22日(土曜日)、夜更けを引き継いだ夜明け前にある(3:43)。パソコンを起ち上げて、脈絡なく浮かべている事柄を書いてみる。一つは、このところのテレビニュースを観るかぎり、ロシアとウクライナの戦争は、世界戦争への突入の様相(予感)を深めている。一つは、これまたきのうの悲しいテレビニュースである。福岡県のある町のある川では夏休み初日にあって、水浴びをしていた児童8人のうち、3人が溺れ死んだという。すぐに、わが児童の頃の夏休みを想起して、いたたまれないニュースだった。なぜなら私も、夏休みの初日から猿股パンツ一つで、わが家の裏を流れている「内田川」へ飛び込んでいた。つらく、惨(むご)たらしいニュースだった。ニュースに映し出された現場(川)の映像を私は、映像が消えるまで涙あふれて見続けていた。今なお、無念きわまりない。三つめは、これらとはまったく場違いであるけれど、浮かべていたかぎりは書き留めるものである。それは、きのうの文章で書き忘れていたことの付け足しである。題して、「大玉西瓜の魅力」である。これまた、ランダムに書き添えるものである。すなわち、美味しさのほかに、大玉西瓜に感じる魅力である。一つは、かかえたおりに感ずるスベスベツヤツヤする快い触感である。まるで、丸い地球をかかえているような快感でもある。次もまた、快感の重なりである。まずは、無傷の大玉西瓜に包丁を入れた瞬間の、バリバリ音の心地良さである。次には、半月に割った西瓜の真っ赤な色合いの快感である。あらかじめ知らされた黄色い実の西瓜を割ったことがあるけれど、ところがこの快感はなく、やはり西瓜は赤玉にかぎるところがある。最後は、盆皿に並んだ三日月形の西瓜を食べる楽しさとうれしさである。それをムシャクシャ食べると、涎と汁がポタポタ落ちてくる。すばやく母は、手拭いを持って来て、わが膝元に広げた。きょうの文章は、これらのことを書いて終わりである。この先、夜明けまでの空き時間をどうするか。思案のしどころではある(4:12)。
8月初日
7月最終日
♪古閑さんへメッセージです2♪
花の名前を教えてくださり、重ねて感謝申し上げます。\(^o^)/
3枚目はバラだったのですね!!
バラ1番大好き人間にもかかわらず、間違えてしまい、もうどうしようもありませんね(苦笑)。
毎回『庭の花』の御投稿から勉強させていただいております。
今後も花々の御投稿や古閑さんの周りの出来事の御投稿をどうぞよろしくお願い申し上げます♪♪有難うございます。
本当に不思議ですね
いただいた本はあまり読むこともないと思いますが二度と手に入らないもの。大事にしたいと思っています。ふとしたことで浮かび上がる記憶
話がそれてしまいましたが、画像入りで紹介して下さった古閑さん、ありがとうございます。♪古閑さんへメッセージです♪
よくわからなくて、申し訳ありませんm(_ _)m 大沢さんの投稿で思い出しました
私が40歳代のころ、川崎市多摩区で何年か仕事をしたことがあります。たまたま同区南生田で仕事で立ち寄ったところが、藤沢秀行先生の家だったのです。当時はまだ囲碁にはまったく興味がなかったときでしたが、藤沢先生が超一流の棋士で永い間「棋聖」の地位を保持されていたこと等はよく知っていました。
それからどれ位の日数が経ったか覚えていませんがある日、藤沢先生から職場に自宅へ来るように電話があり行ってみると藤沢先生から「君は囲碁やるかね」と言われ「いや囲碁はよく分からないのでやりません」というようなことを答えると藤沢先生は、本を持ってきてその場で本にサインをして私にくれました。
本はほとんど読むこともなく本棚にしまいました。大玉西瓜の魅力
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