掲示板

 

掟(おきて)破り

九月八日(木曜日)、小雨模様の夜明けを迎えている。九月になって早や一週間が経つけれど、ちっとも秋らしくない天候が続いている。せっかくの好季節にあっては、至極残念無念である。しかし、自然界の営みゆえに、恨みつらみはない。恨みつらみは、人間界の営みからもたらされる。これまでの私は、この手のメディアニュースの追認(引用)だけはすまいと、心して避けてきた。ところが今、その掟を破っている。事件、事故という、言葉は使いたくない。あえて言えば出来事、いやこれとて適当ではない。結局、事の表現に詰まって私は、「人間、愚か者のしくじり」と書く。確かに、わが固い掟を破っている。大きな罪作りである。罪滅ぼしに、メディア記事の全容の引用だけは止めれば、こうである。すなわちしくじりは、静岡県牧之原市の川崎幼稚園における園児(三歳)の、送迎バス中における置き去り死である。私はこれには平静になれず、書かずにおれなかった。もちろん、この先を書く気分にはなれず、この文章はこれでおしまいである。天災とは異なり、人災には無性に腹が立つ。このたびの愚か者のしくじりは、何よりの確かな証しである。人の命には、本人個人と両親の命、三つが宿っている。

私の庭

2022_09_08gekkabigin.jpg

ただ今六時十一分、もちろん朝です。窓を開けて昨日のことを思い出した。そうだ、月下美人の開花を見るのだった。さかなクンではないけれど、「ギョギョギョ」である。すっかり忘れてしまっていた。月下美人の花は人知れず咲いて、うなだれている。今朝も雨がしとしと降って、まるで月下美人の心模様だ。逃がした魚はなんとやらで、大きな花だったようだ。満開はさぞかし見事だったろう。仕方ない。許してね。次回は蕾のつき具合から、沢山の花が咲くだろう。楽しみに待とう。

私の庭

2022_09_07gekkabigin.jpg

本日は私の庭も雨模様。しとしとと降り続いている。月下美人の開花が始まりそうだ。蕾の先がポカンと開いて、夜を待っている。晴れた月夜を待っていればようものを。へそ曲がりな美人さん。何回見てもあきないこのとき。ときめきはもうないけれど、咲いてくれるのは嬉しい。夜が待ち遠しい。

わが人生における最大難渋、それはデジタル社会

九月七日(水曜日)、いまだ夜明け前の暗闇である。目覚めたゆえに起き出している。文章を書く時間はたっぷりとある。ところが書けない。文章は心象風景が醸す描写である。気力充実、気分上昇のおりにはやたらと書ける。しかし、その逆のおりはまったく書けない。文章ほどあからさまにみずからの精神状態を露わにするものはほかにない。「南無阿弥陀仏」、ネタなくこれで結文としたいところである。きのう書いた文章の表題には、『わが人生の最大幸福』と、書いた。すると現在、わが心中に浮かんでいるのはその逆である。あえて文字にすれば「わが人生の最大不幸」である。しかしながらこれは大袈裟すぎて、見え透いた言葉遊びにすぎない。実際のところはわが人生において、期限を切って現在、難渋しているものではと、言い換えるべきものである。遠回しの表現は止めてズバリ言えばそれは、わが手先の不器用と脳髄の劣弱とが相まって、私自身のデジタル社会への不適合(不適応)である。それなのに社会は、日々デジタル社会への加速度を強めている。おのずから私は、その潮流に乗れずに「置いてきぼり感」を強めて、それにさいなまれている。逆に言えばデジタル社会に適合し、あらゆるデジタル機器を駆使できれば苦悩せず、どんなに快楽であろうかわが身の回りのデジタル(電子)機器は、おおむねパソコン、スマホ、デジカメ、これらに加わるものでは、印刷機、固定電話のファックス機能がある。電気機器ではテレビ、エアコン、固定電話、給湯器、レンジ、冷蔵庫、掃除機などである。要はこれらがちょっとでも壊れると、にっちもさっちもいかずに狼狽(うろた)えて、私は慌てふためいている。銀行の出入機、スーパーの支払い機にさえ戸惑うばかりである。どうにかすんなりとタッチしているのは、電車やバスの乗降口における、乗車券代わりの「スイカ」くらいである。もとよりデジタル社会は、人間社会の利便性を眼目にして、日進月歩を続ける人間社会協同の施策である。それに乗り遅れて、余儀なく苦悩をこうむっているのは、だれに転嫁のしようもないみずから種を蒔いた、「わが人生の最大不幸」と言えそうである。確かにこれは、最大不幸とは大袈裟すぎてその予備軍、すなわち「わが人生における最大難渋」くらいに、留め置くものであろう。現在のわが心象風景は渋っていている。それゆえ、こんなことしか書けない。朝日薄っぺらく、のどかな夜明けが訪れている。人為のない、もちろんデジタルのない自然界は、人間社会に付き纏う憂さを晴らしてくれる。だから私は、こよなく自然賛歌を唱えている。きのう続いて、きょうもまた、表題のつけようのない文章である。

私の庭

2022_09_06gekkabigin1-0.jpg 2022_09_06gekkabigin2-1.jpg

またまた月下美人の登場である。珍しくもないけれど、今年二回目の花である。開花は明日ぐらいだろうか。それにしてもこれを除いて、現在しっかりとした蕾が十一個もついているのだ。こんなこと初めてである。全て同時に花開いたら見事であろう。またそのほかにも小さい蕾がかなりついている。全て咲かせたら疲れてしまうのだろうか。

わが人生の最大幸福

九月六日(火曜日)、体調崩れて憂鬱気分に取りつかれている。身体が損なわれるのは加齢のせいであり、もはや抵抗のしようはない。しかし一方、精神の傷みは、加齢とは関係ない。それは、わが克己心の弱さである。大袈裟に書いたけれど、いまだに夏風邪が癒えない上に、突然歯痛が襲い重なっている。こちらは買い置きの薬剤で抵抗を試みている。けれど、さしたる効果は顕れない。内科医はそうでもないけれど、歯科医には足と気持ちの竦(すく)むところがある。なぜなら歯科医は、通い始めればエンドレスとなる傾向にある。しかしながら私は、歯痛だけは自然治癒にあり得ないことくらいは、とうに知りすぎている。結局、どちらもわが天邪鬼(あまのじゃく)の祟りである。精神安定剤に変わるのは、やはり通院というわが決断である。さて、「ひぐらしの記」は、随筆集とは名ばかりの私日記にすぎない。それゆえにそれに甘えて私は、実際のところは継続の寸断に怯えて、わが身辺の芥(あくた)ごときネタまで書いて繋いできた。換言すれば、わが身の恥晒しである。だけど、恥晒しを恥と思えば、私日記とて文章は書けない。それゆえに、文章を書き続けるためには、恥晒しは承知の助である。憂鬱気分に苛(さいな)まれるなかで、目覚めて私は寝床の中で、こんな思いに耽っていた。私日記ゆえに書ける恵みである。人類の最大幸福は、人為の戦争がないことである。これになぞらえて、わが人生の最大の幸福は何か? と、思いをめぐらしていた。するとそれは、同様にわが身辺に諍(いさか)いのないことである。とりわけ血縁、すなわち親子かつ兄弟・姉妹にあって、諍いや喧嘩のないことがわが最大幸福である。私の場合、戸籍の上では異母、その子どもたち(異母きょうだい)、そしてわが母、その子どもたち、並べて何ら隔てのない多くの兄弟・姉妹に恵まれている。(戸籍上のきょうだいは、十四人と記されている)。もちろん異母と、早死にした姉の一人は、対面叶わずである。きょうだいのなかで私は、十三番目の誕生である。しんがり十四番目の唯一の弟は、生後十一か月のおり、わが子守どきの不始末で、生業の水車の水路にドボンと落ちて、この世から去った。多くのきょうだいたちの中で現在、生存は次兄と私だけである。老少不定は世の常である。結局、わが人生の最大の幸福は、親子喧嘩一つすることなく、また見ることもなく、さらにはきょうだい喧嘩一つすることなく、また見ることもなく、わが人生を閉じそうだということである。もちろん、次兄と私の仲は、全天候型に晴れ渡っている。もとより、「ひぐらしの記」は私日記である。それゆえに、こんなことまで書けるのである。さらには、恥晒しを恐れていては、もちろん書けるはずもない。結局、憂鬱気分著しい寝床の中で私は、わが人生の幸福感に浸りきっていたのである。ご常連各位様には、平にお許しを乞うて、かたじけなく思うしだいである。わが憂鬱気分を癒してくれそうな、清々しい秋の夜明けが訪れている。

表題のつけようのない、戯言(ざれごと)

九月五日(月曜日)、いつもの習性すなわち二度寝にありつけず、真夜中みたいな時に起き出している。このことだけですでに、十分疲れている。私の場合は、安眠こそあらゆる薬剤に勝る、効果覿面の薬剤である。安眠、すなわちこんなたやすいことさえ叶えられないことには、精神異常であろうかと、思うところがある。ここ二日は、文章を休止した。書けば、こんなことしか書けない。それゆえにきょうもまた、書くつもりなかった。早起きしたための空き時間は、仕方なく生涯学習に当てていた。ところが、もとよりいやいや気分の学習では空き時間は埋めきれない。つまるところパソコンにすがり、これまた仕方なくこの文章を書き出している。それでも夜明け前まで、まだたっぷりと時間がある。だとしたら腰を据えて、文章を書けばと思うところはある。ところが、その気にならない。おのずから、空き時間の埋めようをめぐらしている。その処方箋には、三つほどが浮かんでいる。最も手っ取り早いものでは、寝床へのとんぼ返りである。もう一つは、外灯を頼りに道路の掃除への早駆けである。最後の一つは、雑草きわまりない庭中の草取りである。ところが、どれもが決め手にならず、パソコンにすがっている。確かに、この先を書けば、最後には慌てふためくほどに空き時間は埋められる。しかし、それにも気力がともなわない。嗚呼、なさけない。「ひぐらしの記」は、ただ生きているだけの証しに成り下がっている。きのうは、東京へ向かった。都下・国分寺市内に住む、次兄の機嫌伺いである。出かけるたびにだんだん、わが気分は沈んでくる。次兄とわが年齢差は、十(とお)である。優しい次兄なくしては、この世に私の存在はあり得ない。だから、恩返しに果てはない。わが体調不良は、機嫌伺いの可否の言い訳にはならない。行けば次兄は、逆に真っ先にわが体調を案じてくれる。いや、妻、娘、孫へいたるまで、私同様に案じてくれる。いつものことだけれど、出かけるときは気懸かりだけれど、帰りには気分が晴れている。しかし、これも期限付きである。きょうは気分の晴れに恵まれて、休むつもりの文章が書けたのである。いや実際には、空き時間潰しである。ところが潰し切れずに、夜明けまではまだたっぷりと空き時間を残している。生きている証しだけの文章は、つくづく遣る瀬無い。三日連続の休止を恐れた文章でもある。表題のつけようはない。沈んだわが心を癒す、さわやかな秋の訪れを願っている。

♪大沢先生へメッセージです!!

先生、御返事の御投稿どうもありがとうございます*(^o^)/*
望月窯へもパッションフルーツの苗を持って行かれたのですね!!
今後の生長が楽しみですね♪♪
月下美人の狂い咲きもイレギュラーでよろしいかと思います☆☆

高橋さんへ

パッションフルーツの苗大切にしてくださっているんですね。感謝します。今年は酷暑でしたから、古河の実家へ持って行った苗も育っていません。これから季候が良くなれば、蔓は伸びると思いますが、花は来年に持ち越しでしょうね。今までも勝手が違って、難しいです。
 月下美人も狂ったように花芽が沢山ついています。どこまで信用して良いものやら分かりません。

前田さんへメッセージです!!

前田さん、ゆっくりお休みになって、エネルギー &パワーを充填なさってくださいね。

22歳 背番号ゴジラ松井氏と同じ55 燕の村上宗隆選手、シーズン50本塁打やってくれましたねーーーーー☆☆☆☆☆×10
松井秀喜氏と記録が並びましたが、本当に松井氏もビックリですね!!

台風11号は、昨日までは、ほとんど停滞、きょうになっては、速度ゆっくり、との事ですので、気象庁の観測ミスではないようです。