坂本弘司撮影 7月5日(水曜日)、デジタル時刻4:30、未だ明けきれない曇り空の朝が訪れています。大空を見るかぎり気象庁の梅雨明け宣言は、きょうにはなさそうです。NHKニュースで、日本列島各地における豪雨惨禍や竜巻被害を見遣れば、弱音は罰当たりと言えそうです。しかしながら私は、弱音に取りつかれています。弱音は生きることの根源を成す、日常生活における疲れです。きょうの文章は文章とは言えなくも閉じれば、朝駆けにする作業が待ち受けています。大袈裟好きの私は、文字どおり大袈裟に書きました。なぜなら、たった数分間の作業にすぎません。すなわちそれは、先日剪定作業を終えて、きょうのゴミ出しに備えている、束ねた物をごみ置き場へ運ぶだけのことです。それでも焦るのは、このてのゴミ出しは、週一の水曜日だけに限られているせいです。これが済めば道路を掃いて、なおそののちは、朝のうちに庭中の夏草取りをするつもりです。ところが、たったこれだけのことが億劫になり、弱音の根源を成しています。それゆえ、この先のさらなる老い身を思えば、生きることの苦しみがのしかかっています。現在、4:45、薄い夜明けが訪れています。指先を留めて、パソコンを閉じます。 7月4日(火曜日)、未だ夜更けの延長線上の夜明け前にあり、窓の外は暗闇である。静かな部屋の中にあって私は生きて、パソコンを起ち上げている。「雉も鳴かずば撃たれまい」。この成句に倣って私は、文章を書かなければ大衆にたいし、愚痴を晒すこともない。一方、愚痴こぼしは、文章継続のネタになっている。すなわち、文章を書かなければ愚痴こぼしは免れる。けれど、愚痴こぼしを厭(いと)ってはたちまち、ネタ探しに混迷することとなる。確かに、愚痴こぼしはわが身を助けている。そして今や、パソコンは唯一のわが愚痴こぼしの相手でもある。文章を読んでくださる人は少ないけれど、読んでくださる人には不快な思いをさせて、平に謝るしかない。さて、人生晩年とそのつらさの証しは、年年歳歳、対話する人の数が減少してゆくに尽きるところがある。対話こそ、知恵ある人間の証しである。対話が無くなればもはや孤立無援、すなわち人間は「生きる屍(しかばね)」同然に等しいものがある。確かに人間は、文明の利器の進歩により対話に代わるものとして,電話をはじめとするあらゆるデジタル通信による交流手段を有している。それでもやはり、対話こそ、それらに勝る人間本能の優れものである。いや、対話こそ、万能の人間のみが具(そな)える飛びっきりの肉声である。その証しは多々あるけれど、中でもその一つには、道路の掃除どきにおける互いの対話、すなわち挨拶言葉がある。時に応じて短く交わす、「おはようございます」あるいは「こんにちは」の肉声の交換(交歓)には、どちらにも心和むものがある。私は時流に逆らうかのようにまるで、ダボハゼのごとくに対話を欲しがっている。たとえそれが自分勝手、相手迷惑の一方通行であっても、私には無言のままではおれないものがある。いや確かにそれは、味気ない自分自身のためではある。そのため、買い物のレジを通るにあっての私は、一声かけは欠かせない。実際のところ対話はともかく、対面するところと言えば、道路の掃除のおりの通りすがりの散歩の人たち、そして買い物のおりのレジ係の人だけになりがちである。いわゆるこれらの人たちは、わが生存の価値(甲斐)を助けてくださっている大切な人たちである。それゆえに、たとえ一方通行であっても、これらの人たちへの一声かけは、わが気の済むお礼返しでもある。翻って妻との会話は、こんな純粋な気分にはなれず、多くは棘(トゲ)を含んでいる。人生晩年の確かな証しは、対話の減少である。対話であれば相手の言葉が挟まり、そう愚痴こぼしもできない。しかし、文章では愚痴の垂れ流し、留まるところがない。挙句、愚痴こぼしは継続文のネタを担っていると、負け惜しみをほざくありさまである。書き殴りはいいなあー、でたらめを書いて、文章が埋められる。しかし、気分が晴れることはない。気分が晴れるのは、心地良い対話だけである。雨の夜明けが訪れて、まだデジタル時刻は5:04である。道路上の今朝の会話は、お預けである。きょうの私には昼間、買い物の予定がある。レジ係人との出会いは楽しみである。相手が、知ったこっちゃない。 7月3日(月曜日)、きのうとほぼ同時間に目覚めて起き出し、パソコンを起ち上げている(午前4時前)。しかし、心模様はきのうとはまったく異なり、のんびりタラタラとキーを叩いている。きのうの心模様は、薄い夜明けを待ってのアジサイの剪定作業のことばかりだった。そしてきのうは、予定の行動どおりにそれを実行した。道路に切り落したアジサイの枝葉は、朝食を挟んで12時頃に束ね終わり、週一・5日(水曜日)のゴミ出しに備えている。気に懸かっていたことを終えて現在の私は、気分晴れ晴れである。通りがかりの散歩の人は、ほぼ一人も欠けず、心癒しの言葉をかけてくださった。言葉一つで疲れが緩み癒されるのは、言葉をかける人の知恵であり、癒される者の特権であろう。ここまで書いても、何らネタが浮かんでこない。能無し野郎にとって継続とは、やはり負荷された重荷である。だから、何でもいいから書いてみよう。子どもの頃から、わが食感に馴染んできたおふくろの味は数々ある。これらの中で、筆頭の位置にあるものは「きんぴらごぼう」である。きんぴらごぼうは、スーパーや総菜店にあっては、どこかしこ定番の一つを成している。すなわち、だれもが好む表れである。もちろん、わが買い物における定番でもある。ところが、どこのお店で買っても出来合いのきんぴらごぼうは、おふくろの味からしたら、序の口にもなれないままである。いや、おふくろの味をいや増す、おふくろの味の引き立て役に甘んじている。夫婦共に、きんぴらごぼうにはおふくろの味があるせいか、妻はきんぴらごぼうをよく作る。妻にもまた、おふくろの味があるのであろう。もちろん、それはそれでいい。無理にわがおふくろの味に合わせることを私は、野暮に強要することもない。ところが、きのうのきんぴらごぼうの出来栄えは、わがおふくろの味に近いものだった。私にも夫婦円満を願う知恵はある。「きょうのきんぴらごぼうは旨いねー。子ども頃に食べていたきんぴらごぼうのようだよ。笹型割き、ピリ辛(唐辛子)、最高に旨いね。おふくろの味達成だ! ありがとう」。こんな文章を書いていたら、夜明けて5時過ぎ。この頃、きのうは勇んで剪定作業に取り掛かっていた。指先を休めて窓際に立ち、剪定作業を終えたところを眺めている。朝駆けの散歩めぐりの人は、アジサイの終わりと夏の訪れに気づいてくれるであろうか。きんぴらごぼうのおふくろの味に味を占め、またアジサイの剪定作業を終えて、わが気分はすこぶるつきに良好である。きょうあたり、梅雨明けかな。薄明りを破り、夏の朝日がぎらぎらと輝き始めている(5時過ぎ)。継続文の足しになればいい。 7月2日(日曜日)、起きて現在は4時前です。わが性癖は悪癖に置き換えて、根っからのマイナス思考と怠け者です。これらに加えて最たるものは、優柔不断な意志薄弱と、物事に厭きる三日坊主です。性癖とは異なり、人間の並みの能力から劣るのは数多あり、もちろん数えることはできません。あえてバカ丸出しに書いているのは、卑近なところでこんなことがあるからです。何日か試みた昼間書きは定着せず、元の木阿弥になり、また朝書きに戻りつつあります。するとたちまち、朝書きの支障に遭遇しています。今朝の私には、一つの企てがあります。それはできれば夜明けてすぐから、道路脇・山の法面のアジサイを剪定することです。すると現在は夜明け前にあり、企ての夜明けが近づいています。それゆえ、この企てを実行すればこの先の文章は書けません。今朝は、明確な朝書きの支障です。そのうえ、朝書きに付き纏う書き殴りです。昼間書きの定着の外れは、自分自身、悔やんでも悔やみきれません。書かなければ恥を晒すこともないことを殴り書いて、剪定作業へ向かいます。ただ現在の時刻は、薄い夜明けの4時半頃です。言わば「気狂い者の時」です。それでも気に懸かることですから、準備と剪定作業行動をはじめます。まだ早く、ウグイスのエールにすがることはできません。いや、鳴き出せばウグイスは、子どもの頃のリベンジに、「おまえは、大バカ者」と蔑み、せせら笑いを奏でるかもしれません。それでも、仕方ないです。薄々、夜が明けました(4時46分)。 私の古河の実家「望月窯」は、古閑さんのおっしゃるように現在別荘代わりに訪れていますが、のんびりと過ごせるほど整然としているわけではなく、とにかく庭や畑の草むしりや手入れに明け暮れて、二泊三日が過ぎていきます。その合間に季節の野菜を育てています。草むしりも庭の手入れも野菜を育てるのも楽しいひとときです。遺してくれた両親には感謝しながら、早くゆっくりと過ごせる時間が持てるようにとせっせと働いています。 7月1日(土曜日)、真夜中に起きてきのうの夜とは異なり、寝たり起きたりを繰り返し、確かな息遣いで生きています。抜歯の後の出血はきのうの夕方頃には止まり、三日分の痛み止めを服みはじめていたせいか、痛みも和らいでいました。そのせいでわが生きる活動(生活)は、少しずつ変わり(好転)はじめていました。もちろんいまだに、心地良いとか快適とかとは程遠いものの、それでも生きる喜びすなわち幸福感が戻りはじめていました。いやこのことは世の中の人と比べて、無理矢理にでもそう思ったのです。この頃の世間では有名人そして無名人、共に分け隔てなく、生きることの苦しみに喘ぐ、ニュースが頻繁に起きています。みんな、悲しみに纏わりつかれて生きています。私は、このことを浮かべていたのです。夕べの就寝時には豪雨ニュースに耐えきれず、私はふるさとの亡き長姉と長兄の長男(後継者・甥)へ、雨と内田川の増水状況を尋ねました。二人の甥は異口同音に、ふるさと模様をこう伝えました。「これまでのところ雨は、降ったり止んだりで、今のところは大丈夫です。川の水はいみっているばってん、まだ大したことはないです。ただ、避難指示は出ています。雨は今夜、この先が大雨になるそうです。だから、それを心配しています」。夕御飯のおりには出血の止まりに喜び私は、我慢していた御飯を茶碗に小盛りで食べました。御数は、大好きな旬の夏野菜三品の揃い踏みでした。トマトは、輪切りに食卓塩をばら撒きました。ナスは、妻にせがんでナスのしぎ焼きを食べました。キュウリは、子どもの頃から食べつけているおふくろの味、「キュウリ揉み」(味噌和え)をこれまた妻にねだり、食べました。大好きな料理? で、私には幸福感がいや増しました。テーブルを挟んで相向かいのソファに座る妻は、こう言いました。「パパ、まだ夕御飯には早いわよ。パパ、まだ食べちゃだめよ。わたし、まだ食べたくないわ」。妻は全部の20個が済むまで、ひたすら「ゴキブリホイホイ」を組み立てていました。児童の頃の「綴り方教室」を真似て、書きました。書き終えて、「小さな幸せ」と、題を付けました。 古閑さん、御返事の御投稿どうもありがとうございます*(^o^)/* いつも花のご感想ありがとうございます。 大沢さん、花のご感想いつもありがとうございます。 ぼくのエールが本日の『ひぐらしの記〜6月最終日の朝の訪れ〜』の御執筆に繋がりたいへん嬉しく思います*(^o^)/*\(^o^)/ 歯科医院への通院、たいへんお疲れさまでございました。
弱音の朝
書き殴りの、あえて妙
継続文の足しになればいい
気狂い者の時
望月窯だより
油断していると萱や笹が茂って、腰の高さぐらいになって、風雨でなぎ倒されると手が付けられなくなります。今はドクダミも伸びていて、白い花が愛らしく咲き乱れていますが、その草丈は五十センチぐらいにもなります。引き抜くと白い根が十センチぐらいあります。私はドクダミの臭いは嫌いではないので、気分良く引き抜いていきますが、嫌いな人は絶えられないでしょう。
庭木が天高く伸びて、手の届く範囲は切り詰めますが、伸びきってしまった枝は上空を覆って、日陰を作ってくれます。
とにかく夏場の草取りは日陰を探しての作業なので、暑さとの闘いもあってはかどりません。
そんなわけで、別荘と言っても自然だけが取り柄の環境です。「綴り方教室」小さな幸せ
♪古閑さんへメッセージです♪
まったくおっしゃる通りで、幼年期は、完璧なまでにおばあちゃん子(母方祖母です)でしたので、母の記憶がありません(笑)。
母は、弟が生まれるまで埼玉県の職員として勤務していましたので、祖母に任せっきりだったんでしょうね。
母の実家暮らしで、庭が広いし、たくさんの植物があり、池や畑もありました。
そこで、祖母の植物指導? を受けていた事になります(笑)。
幼年期の好きな花ランキングは、第1位椿 第2位薔薇 第3位牡丹 でした。
今現在は、順位が入れ替わって、第1位薔薇 第2位椿 第3位牡丹 となっています。
花のサイズが大きくて、綺麗で、見ているだけで存在感がある花が好きなんです♪♪♪高橋さんへ
高橋さんは確か祖母様の影響で花がお好きになられた、と以前投稿されたように思いますが良い影響を受け継がれましたね。別荘気分
古河のご実家は別荘気分ではないでしょうか。花のお出迎え、いろいろな野菜の収穫。自然の中での生活、皆素晴らしいですね。♪前田さんへメッセージです♪
前田さんのさらなる『ひぐらしの記』を毎日楽しみにしています♪
抜歯後の御快復を心より祈っております。
昨年10月中旬〜今年の1月中旬まで、ぼくも歯科クリニックへ通院していました。
週1回でしたが、なかなかたいへんで、大沢先生もお書きになっていらっしゃいますが、自分から通院を止めてしまいました(笑)。
その後、どんなに急いでいても歯科クリニック前を通る事はしませんでしたが、周辺で、歯科衛生士さんや受付嬢とバッタリ会って、お互い「アラ、マァ〜〜!!」とビックリしたりしています(大笑)。
どこの歯科医院も女性スタッフは☆綺麗な女のコ☆ばかりですから、「これも良いな!!」と思っています(大笑)。
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