九月二十四日(土曜日)、この秋の天候不順は、極めてしつこいところがある。大袈裟に書こう。明けて来る日も来る日も、雨や曇りあるいは雨上がりの夜明けばかりである。今朝もまた、小雨が降ったり止んだりの夜明けにある。これまでの秋の足取りは、まったく秋らしくない。だからと言って、自然界の営みには腹を立てても仕方がない。しかしながらこうまで天候不順が続くと、かなり恨みつらみつのるところがある。一方、私の場合は、天候不順を超えて風邪症状のしつこさに、今なお見舞われ続けている。風邪症状は夏風邪をひいて以降、治りきらないままに秋風邪へとつないで、いまだにその状態にある。夏風邪が罹り始めゆえに、すでに一か月をはるかに超えて、風邪症状に取りつかれている。この間の文章には、おのずから風邪のことと、それが因の憂鬱気分のことばかり書いてきた。そのせいで、ときには文章書きを休んだり、継続だけを願っての文章に甘んじた。省みて、なさけなさが募るばかりである。ところが今も、そんな精神状態にある。すなわち私は、いまだに治りきらない風邪症状のせいで、早々と休養を決め込み、寝床の中で風邪症状と闘っていた。挙句、「ひぐらしの記」は、すっかりわが身辺のことだけを、いやいやしながら書くだけの私日記に成り下がっている。それゆえにずっと、かたじけない思いが続いている。きのうの「秋分の日」(九月二十三日・日曜日、祝日)が過ぎて、いよいよ秋は深まりゆく。それゆえ私は焦りに焦って、二兎を追って秋の名に恥じない好季節の訪れと、わが風邪症状の治りを切に願っている。これは、書くまでもない文章の見本である。やはり、休めばよかった。表題のつけようはなく、風邪症状を長引かせるだけかもしれない。雨は降ったり止んだりの状態から、雨一辺倒に変わっている。 好季節・秋は、どうしたんだろうか? 「秋分の日」(九月二十三日・金曜日)にあっても、雨の夜明けである。短い期間限定の彼岸花は、さぞかし悔しがっていることだろう。再びの三連休初日にあって、物見遊山を目論んでいる人たちもまた、雨空を仰いで悔しがっているであろう。墓場に眠る御霊たちも、雨のせいでお墓参りを渋る子々孫々を思い浮かべては、これまたさぞかし悔しがっていることであろう。これらをかんがみれば、私とて雨の夜明けを悔しがらずにはおれない。わが悔しがりにはオマケがついている。それはせっかくの好季節にあって、夏風邪を長引かせて気分を滅入らせていることである。それゆえにきょうは、出まかせにこんなことを書いて、指を擱くこととなる。わが命は時々刻々削られていくのに、胸の透く秋空を遠のけている天の事情が恨めしく、憎たらしくも思えている。朝御飯の楽しみだけは欠かせない。茶の間へ急ぐだけの朝の行動である。 九月二十二日(木曜日)、今なお私は風邪症状を引きずり、休養状態にある。夜明けて窓の外は、強風が吹き荒れている。これには、一つの恩恵がある。それは、強風すがりの道路の掃除の免れである。なんだか、うれしい悲鳴である。ところが、気分は今なおすぐれない。もちろん、字を替えて、風邪症状のせいである。台風14号には、喜ぶべきことだけれど、なんだか肩透かしを食らって、どこかへ過ぎ去った。私は身構えていた。だからそのぶん、かなり気抜けしている。もちろん、「不幸中の幸い」という表現は当たらない。台風には前後、こんな言葉がつきものである。すなわちそれは、「前触れと余波」である。今朝の強風はおそらく、台風14号の余波であろう。いや、新たな台風発生の前触れなのかもしれない。きょうの私は、きのうに続いて、のっけからずる休みを決め込んでいた。ところが、強風の夜明けに遭遇し、咄嗟にこんな文章を書いている。実際には台風にまつわる、前触れと余波という言葉のおさらいを試みているにすぎない。それゆえに、これで結文とするところである。どちらのせいにしてもこのところの日本列島は、秋とは思えないぐずつく天候に見舞われている。明日は「秋分の日」(九月二十三日・金曜日)である。「暑さ寒さも彼岸まで」。ところが、早やてまわしに寒気が訪れている。私の場合、寒気は真っ平御免である。私は、風邪と風(台風)に翻弄されている。それゆえ、「つまらない秋、盛り」である。 きのうの「敬老の日」(九月十九日・月曜日、祝日)を含む、三連休明けの「九月二十日・火曜日」の夜明けを迎えている。三連休にあって私は、文章書きを休んだ。もちろん、愉快な物見遊山に出かけたためではない。夏風邪が尾を引いて、憂鬱気分に苛まれていたせいである。すなわち、体調を崩して憂鬱気分全開ゆえの、三連休を余儀なくしたのである。人間、いや私の場合は、身体不良になれば、たちまち精神もまた不良になる。きょうは世の中の人に倣い、三連休を終えての再始動を願っていた。ところが、いまだに体調および精神共にすぐれず、三連休明けとはいかない。それゆえなさけなくも、気分は四連休の憂き目に見舞われている。風邪症状は、きわめてしつこいところがある。私も、このしつこさが欲しいところである。しかし、私にはそれはなく、風邪症状にかぎらずすべての物事にたいしぼろ負けである。言うなればわが性癖(悪癖)には、闘争心や克己心に欠けるものがある。残念無念というより、私は生まれつきの愚か者である。鼻をグズグズさして起き出してきた。四囲の窓は、台風14号の襲来予報に恐れをなして、すべての雨戸を閉めている。そのため現在、外の様子はわからずじまいである。台風、大雨、共に大過なく去ることを願っている。ここで、文章とは言えない文章を結び、茶の間へ下りて、台風情報に耳を傾ける。こんな文章には、表題のつけようはない。今なお、鼻グズグズ、頭ズキズキ、再始動は遠のくばかりである。台風、来るのかなあ……?。 「敬老の日」(九月十九日・月曜日、祝日)。このところのテレビニュースは、日本列島の南の地方・地域を襲っている台風14号と、それのもたらす大雨状況で大わらわである。気象庁の大慌てぶりは、これまでのなかにあって、稀に見る大型台風という予報とともに、十分に読み取れる。当てが外れて喜ばしいものの筆頭は、地震や台風をはじめとする天災予報である。神風などあるはずもない。大ぶりの予報が小ぶりであって欲しいと、ひたすら願うところである。「敬老の日」にあって今や私は、敬う能動態の身ではなく、もっぱら敬われる受動態の身、すなわち受け身である。なさけなくもこんな日にあって、私は風邪症状を長引かせている。おのずから「風邪は大病の基」という恐れと、それに絡みつく憂鬱気分が鬱勃している。そのせいで本格始動には至らず、さらなる休養の継続である。ずるずるべったり、文章の書き止めに留まらず、案外、このままあの世行きになるのかもしれない。頭が痛み、脳髄が傷んでいる。 九月十八日(日曜日)。きのう、近くの医院へ外来。 九月十七日(土曜日)。理由:体調不良(風邪)による気力喪失。 九月十六日(金曜日)、季節は夏の名残の残暑をかなぐり捨てて、大車輪で秋へめぐり、日々秋の色合いを深めている。パソコンを起ち上げると、メディアニュースの並ぶ項目の筆頭には、「台風14号、日本列島は大荒れの予想」と、出ていた。台風11号は、沖縄諸島に被害をもたらした。続いて発生した台風12号と13号は、幸いにも予報は外れて、途中で消えた。欲張りの私は、台風14号もそうあって欲しいと願っている。時あたかも日本列島は、「実りの秋」をはじめとしてさまざまな「冠の秋」たけなわ(酣、闌)にある。せっかくの好季節にあって、相次ぐ台風のお出ましは真っ平御免である。ところが、こんな好季節にあって私は、ドジを踏んでいる。実際には私は、夏風邪が治りきらない上に、秋風邪を重ねている。それゆえに、気分の重たい秋を被っている。そのせいで、せっかくの「馬肥ゆる秋」、「食欲の秋」共に、台無しである。つくづく、阿呆な私である。なぜなら、行きつけの「大船市場」(鎌倉市)には、好物の栗をはじめ「実りの秋」満載である。これらにありつくには、まずは憂鬱気分を食い気に代えなければならない。すなわち風邪治しは、目下のわが大きな課題である。確かに、私にとって風邪は、侮れない難敵である。その証しに風邪は、食い気と共に、文章を書く気分を殺いでいる。実際にも風邪は、この先の文章を阻んでいる。私にとって風邪は、ほとほと始末に負えない厄介者である。「自業自得だね、ドジを踏んでいる、おまえが間抜けだ!」。手元の電子辞書を開いた。「ドジ:まぬけ、へま、失敗、ぶま。ドジを踏む:へまをする。間の抜けた失敗をする。」もちろん、電子辞書にすがるまでもなくこれらの言葉は、不断わが身に取りついている日常語である。私は気分直しにしばし、夜明けの秋空を眺めている。薬に頼らずとも風邪と憂鬱気分を治してくれそうな、胸の透く清々しい日本晴れである。このことでは案外、14号台風予報にあっては、気象庁はドジを踏みそうである。 九月十五日(木曜日)、薄く白みかけている夜明け前は、今にも雨が落ちそうな曇り空である。カーテンを撥ね退けて眼下の道路に目を遣ると、ひとりの朝駆けの中年女性が足早に歩いていた。こんなにも早く、散歩される人がいるのかと、私はいくらか唖然とした。この人にかぎらず、普段散歩ご常連の人たちは、夜明けあるいは夕方のどちらかに決めて、無病息災を願って歩いている。たかが散歩とはいってもわが身に照らせば、並大抵の努力や気力ではない。だから私は、それらの人たちに出遭うたびに羨望をおぼえて、同時にそれらの人たちの意志力を崇めたくなる。先ほどは急いで窓ガラスを開いて、歩いている人の頭上に、「頑張ってください」、と呼びかけたくなった。しかし、それは控えた。お顔見知りではないための戸惑いであった。また、声が間に合いそうにない、速足だったためでもある。道路には、ところどころに枯葉が落ちていた。私は、ちょっぴり悔いをおぼえた。悔いとは、きのう掃除を怠けて、すまないという思いであった。生きている人は、病なく生き続けることに必死である。無病息災という高望みでなくても、生き続けることには困難を極めるものがある。私は起きて、朝っぱらから、生き続けることの、いや単に生きることの困難さと、そしてそれに立ち向かう意志力の尊さを浮かべている。これは、ひとりの朝駆けの女性から学んだ人生訓と言えるかもしれない。そうであれば「早起きは三文の徳」どころか、いやいや「べらぼうな徳」である。曇り空は、朝の散歩ご常連の人たちの足と心を急かせている。ポツリ、ポツリ、小雨が落ちてきそうである。表題、無し
秋分の日
「つまらない秋、盛り」
台風、来るのかなあ……?
三連休最終日、さらに休養
三連休二日目、なお休養
二度目の一週間分の風邪薬の処方箋をもらう。
いくらか回復途上だが、いまだ気分すぐれず、休養継続。三連休初日、休養
夏風邪、秋風邪、「私はドジを踏んでいる」
朝駆けの散歩の人から学んだ人世訓