掲示板

坂本弘司撮影

ありがとうございます。

 大沢さん、花の感想の投稿ありがとうございます。大沢さんの言われる通り暑い日が続いていますが花は暑さをものともせず元気にしています。また、花を見て少しでも頑張ろう、という気持ちになってもらえればこんなうれしいことはありません。ありがとうございます。
 今日も地区センターへ行って悔しい思いをしてきました。

♪前田さんへメッセージです♪

前田さん、1日遅れの感想で申し訳ございませんm(_ _)m
『小型電動携帯扇風機』は、「ハンディファン」と言います。
ヘッドホンのようなデザインのものは、「ハンズフリーファン」とか「ネックファン」と呼んでいます。
ケイタイのように充電して使用します。
前田さんがおっしゃる通り、『現代女性のおしゃれの一つ』です。
もう1つ、「スマホショルダーポーチ」も流行っています。
ですが、ぼくには、「ハンディファン」も「スマホショルダーポーチ」も子供っぽく見えてしまい、大人の女のコが使っていると思わず苦笑してしまいます。
やはり、学生までかな、とも思います(笑)。
大人の女のコならば、「ハンディファン」を使うなら、ハイブランドの☆クリスチャンディオールの扇子☆を、「スマホショルダーポーチ」なら、★CHANELの小型ショルダーバッグ★で差をつければよいのに、とか勝手に思っています(笑)。

♪古閑さんへ『庭の花』の感想です♪

古閑さんが碁を打って♪ルンルン気分♪になられるように、毎日祈りを捧げています♪♪
ダリアとサルスベリの花の画像の記憶をすっかり忘れていましたが、大沢先生の本日の御投稿から教えていただく形になりましたが、思い出しましたo(^-^)o
幼少年期の祖父母宅には、ダリアもサルスベリもありましたが、ダリアは、こんなに色鮮やかではなく、サルスベリは、ピンク色(白色もありますよね!!)ですが、こんなにボリューム感はありませんでした。
古閑さん邸の御庭の花々の素晴らしさは、『いつも色鮮やかでボリューム感がある!!』ところですね◎◎◎◎◎

ああ、夏だなあ!

 古閑さん、お久しぶりです。悔しくても、碁仲間がおいでなのはうらやましい。 
 ダリア、サルスベリ、あとはわからないけれど、画像をクリックして思わず「夏だなあ」と言葉に出してみる。本当に猛暑にもかかわらず、花々は見事な色に輝いている。
今日も一日、頑張ろう。そんな気持ちが溢れてくる。
古閑さん、有り難うございます。

やはり私は夏が好き

7月20日(木曜日)、やはりまだ、梅雨空の夜明けが訪れている。気象庁が梅雨明け宣言忘れのドジを踏んだと思えていたけれど、逆にわが早とちりのドジだったようである。いくら早いけれどこの時期、ほぼ毎年同じようなことを浮かべている。すなわち、「やはり私は夏が好き」である。まずは、夏の季節で困ることを浮かべている。すると、筆頭の地位に位置するものは暑いことである。おとなの問いに対し、なんだか幼児が答える理由みたいである。後には、それに誘引されるものが続くこととなる。熱中症の危険性が高まる。寝冷えで夏風邪がひきやすくなる。冷房エアコンや扇風機が入り用になり、はたまた頻発するシャワー掛けや、さらには洗濯機のフル回転などで、やたらと光熱費が嵩んでくる。しかしながらこれらは、冬の季節の暖房エアコンや風呂への給湯にかかる光熱費と比べれば、まだ少なくて済むところはある。繁茂する夏草取りには往生を極める。夏痩せ願望は逆太りに遭って、まったく果たせない。最後に持ってきたけれど、生きるための活動(生活)の基本を成す買い物には、途轍もなく難渋を強いられる。浮かぶままに並べてみた。すると、わが夏の季節が好きという理由は、ことごとく打ちのめされそうである。だからそれを防ぐにはおのずから、それらの項目を超える夏の季節特有の利点を浮かべなければならない。浮かぶままの利点を記してみる。もちろん勝負は、好き嫌いの項目の多寡ではない。たとえばこのことだけで、嫌いを打ち負かすことができそうである。すなわち、着衣の軽装、着脱の簡便さである。これらに付随するものでは、夜具の軽さがある。確かに、これらのことだけで、わが夏の季節好きの理由には、十分適(かな)っている。それゆえ、この先の項目は付け足しである。旬の夏野菜三品(トマト、キュウリ、ナス)が美味い。西瓜、かき氷、アイスキャンデーを食べれば老い心は、たちまち童心返りに恵まれる。網戸から入る夏風は、わが身にあまるほどに快い。セミの声には郷愁を掻き立てられる。板張りに仰臥する昼寝は心地良い。木陰の涼み、夕涼み、夕立のあとの涼みなどの快さは、何ものにも替え難い。いずれも自然界から、夏の季節にかぎりたまわる無償のプレゼントである。確かに、夕立に付き添う「雷さん」には恐れるけれど、幸いにもなぜか、鎌倉地方にはそんなに怖いものはやってこない。ところが、ほかの季節と違って夏特有に、とことん恐れるものには、ムカデの茶の間や枕元への闖入(ちんにゅう)がある。妻はヤモリやゴキブリにも形相を変えるけれど、それらはご愛敬で恐れることはない。スズメバチやマムシあるいは青大将の出没がなければ敵は唯一点、ムカデだけである。(あな、恐ろしや!)そのためには用意周到に、ムカデ殺しのスプレーをあちこちに常置している。挙句、わが夏の季節が好きの帰趨には、ムカデの出没ぐあいが大きくかかわっている。ほとほとなさけないけれど、それでもやはり私は、夏の季節が好きである。梅雨空ももはや、最後の悪あがきであと数日であろう。軽装の身には早やてまわしに網戸から、涼しい夏の朝風が吹きつけている。夏暑いのは、耐えるよりしかたがない。やせ我慢と言われても、気にすることはない。

庭の花

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 地区センターまで1キロ、コロナ禍前は歩いていたが、現在は、幸いにも地区センターには駐車場があるので我が最高級スーパーカーを運転して行っている。

庭の花

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 相変わらず地区センターへ行って仲間とザル碁を打っては毎日悔しい思いをしている。
たまにはルンルン気分になってみたいものである。

心寂しい夏

優しかった兄姉たちはみな、あの世へ逝ってしまった。寝転んで、夏空を見ている。

夏の木陰の恵み

7月19日(水曜日)、このところの書き出し同様に、のどかな夜明けが訪れている。未だに気象庁の梅雨明け宣言はないようだけれど、私には腑に落ちない思いがある。気象のプロを自任する気象庁の「後だしへま」でなければと、老婆心をたずさえておもんぱかるところがある。なぜなら、このところの陽射しの厳しさは、体感的にはすでに梅雨明け後の夏の日照りと思うばかりである。きのうは、歯医者帰りに買い物を兼ねた。大きな買い物用リュックを背負う首筋には、汗がタラタラと流れ続けた。私はハンカチを手にして、流れ出る汗を拭き続けた。街行く若い女性の中にはチラホラと、本当の命名(商標名)は知る由ないが、小型の「電動携帯扇風機」を手にして顔の前にかざし、歩いている人たちがいた。テレビ映像でも街中にあってもこの光景は、未だに男性ではほとんど見ない。だとすれば暑さ凌ぎの電動携帯扇風機というより案外、現代女性のおしゃれの一つなのかもしれない。確かに、女性であれば、絵になる光景である。逆に、男性の場合は、様にならない光景である。現代のジェンダー(性差)喧(かまびす)しい日本社会にあっては、こんな表現は顰蹙(ひんしゅく)を買うのであろうか。現在行われている「大相撲名古屋場所」における観客席の浴衣姿も、女性に限れば絵になる光景である。手に持つ電動小型扇風機は、昨年あたりから若い女性に一気に普及しているように思えている。夏の暑さ凌ぎであれば私があれこれ言うことではなく、文明の利器の進歩を称賛するところである。暑さしのぎではないけれど、日本社会の移り変わりのことで最近、目にして驚いたことを加えればこのことが浮かんでいる。これまたテレビ映像のもたらしたものだが、学童が背負うランドセルには教科書ではなく、一つだけ小型のタブレットが入っていた。すると、インタービュアのインタービューに応じる学童は、こともなげに「軽くていいです」と、言った。もはや日本社会は、デジタル難民を自認する私の住むところではなくなっている。歯医者の診療椅子に横たわり私は、歯の痛みの場合の古代人はどうしていただろうかと、野暮のことを浮かべていた。このところは日本社会の止まらず世界中で急に、「ChatGPT,生成AI」すなわち、AI(人工知能)からみの話題が沸騰している。私の場合、日本社会の変容にはほとほと汗をかくばかりである。きのうの私は、深緑を増す葉桜の下、しばし半増坊下バス停のベンチに座り憩いながら、木陰のもたらす自然界賛歌に浸っていた。能無しの私には、ぴったしカンカンの自然界の恵みである。

私の庭

 高橋さんのおっしゃるとおり、一つ残った月下美人は開花せぬまま朝を迎えていた。このところの猛暑続きでは、緑の葉も黄色に変色して疲れ切った様子である。
 梅雨が明け、真夏の日差しが弱まった頃、もう一度か二度蕾に恵まれるかも知れない。
 今朝は、豆腐の本当の味を思いださせてくれる前田さんの「ひぐらしの記」だった。父は豆腐が好物だった。昔食べた豆腐の味が恋しくて、手作り豆腐を思いたった。道具作りからの挑戦だった。そして、家族総出で作った豆腐の味は、大豆のうま味が凝縮して良い香りがしていた。
「これこそ本当の豆腐の味だ」と出来たての豆腐をほおばりながらご満悦だった父の笑顔が思い出された。出来上がった豆腐は水などにつけず熱いうちにそのまま食べるのが旨いのだと父は言っていた。
 夜行列車に揺られて故郷に帰省すると、真っ先に叔父の家を目指した。叔父は父が豆腐好きなのを心得ていて、朝食に必ず豆腐屋から出来たての温かい豆腐を買い求めて用意してくれていた。そんな想い出に浸った今朝の「ひぐらしの記」だった。