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大沢久美子撮影

連載『自分史・私』、7日目

内田村は熊本の県北部にあり、福岡と大分とに県境を分ける熊本県側に存在する。三国山とか国見山とか名のついた連山には、峠道が入り組んでいる。遠峯と里山に囲まれた内田村は盆地を成して、細切れの段々畑と狭隘な田園風景を見せている。村人の暮らしは農産物の恵みにすがり、主に自給自足で賄っている。村の中央には一本の県道が走り、それにオシドリのように寄り添って、一筋の内田川が流れている。私の家は内田川を裏戸の背にして、川岸に建っていた。年に一度父は、水車の取水溝を共有する隣家に呼び掛け、共同で川中の堰を落として、取水溝を干し上げた。この日は隣家の子どもたちと私にとっては、一年のなかで最も楽しい魚取の日だった。なぜなら、この日にはおとなたちも混じって、共に家族総出の魚取りが行われたのである。互いの家族は、これを「車井出、落とし」と、呼んだ。双方が持ち寄ったバケツは、ウナギ、ナマズ、ゲギュ、シビンチャ、ハエ、ドンカチ、アブラメ、カマドジョ、シーツキ、ゴーリキ、ほか雑魚などで満杯になった。それらをほぼ均等に分け合い、わが家へ持ち帰った。夕方になると、互いの釜屋(土間の炊事場)から醤油煮の匂いが漂った。わが家にあっての内田川は、生業を恵むかたわら敏弘の非業の死をもたらした。罪をしでかした真犯人は私である。ところがこのときの私は幼くて、死の意味すら十分には知らなかったのかもしれない。私の替わりに泣き崩れたのは父と母である。なかでも母の悲嘆ぶりは、父をいたく心痛させた。さらに父は、母の精神状態が病み壊れることを極度に心配した。不断の父はどちらかと言えば寡黙朴訥であり、母との会話もそんなに多くはなかった。ところがこのときから父は、堰が切れたごとく饒舌愉快に振舞った。まるで子どもをあやすような親の姿になりかわり、父は朝な夕な母に話しかけた。ちょっとした笑いの種にも父は、大袈裟に笑いこけた。敏弘の事故死以来父は、母の沈痛な面持ち解すために、意識して道化者の役回りを演じていたのである。敏弘の死後の父と母の思いは、いっそう強く私に向けられた。それもまた、親の私をおもんぱかっての並々ならぬ気遣いに満ちたものだったのである。

連載『自分史・私』、6日目

これから書く文章は、私の文章を読んでくださる人にとっては、またかと思われるものである。しかしながら文章を書くかぎり私は、いろんなところで繰り返し書かなければならない。理由の一つは、わが生涯における最大の悔恨事ゆえに書けば、常に詫びなければならない。もう一つは、私にも弟がいたこと、すなわち敏弘がこの世に生きていたこと(実在)を、書き留めて置かなければならない。まさしく、私にだけに課せられた痛恨の義務である。もちろん、こんなことなど書かなくて済めばいい。しかしながら、そんな身勝手は許されない。罪をしでかした私の、つらい悔悟と懺悔である。敏弘の誕生日は昭和19年3月31日。母は、兄の私が4歳と8か月のおりに弟敏弘を産んだ。このときの父の年齢は60歳、そして母は41歳だった。敏弘は、二人のしんがりの子ども(末っ子)であり、私にとっては唯一の弟である。さらに言えば敏弘は、異母(6人)と母(8人)が産んだ子ども(14人)の末っ子である。父にすれば敏弘は、14人目の子どもとして誕生している。太平洋戦争の戦雲たなびく昭和20年2月27日の昼下がり、ようやくめぐってきた春はいまだに肌寒いなかにあって太陽は、暖かい光を放っていた。この日の敏弘は、生後11か月近くだった。母は敏弘を背中におんぶして、精米機械類が据えられている母屋、その庭先、そして仕納場(農作業用の二階建ての建屋)の前の広い「坪中」間を足繁く往来していた。母は坪中にひとりで遊んでいた私のところへ、急ぎ足でやって来た。母は「ちょっと、見といてくれんや」と言って、背中の敏弘を地面に下した。母は敏弘の子守を私に託すと、とんぼ返りに小走りで、再び母屋の中へ入った。母のおぶ紐から解かれた敏弘は、家族が認めていた生まれつきの敏捷さで、チエーンを外された小犬のように勢いよく「這い這い」を始めた。私は敏弘のスピードを恐れた。方向感や危険感覚などなく這いずり回る敏弘を追っかけて、私は敏弘にはわかりようない言葉を大声で叫び続けた。「危ないよ。そっちへ行っちゃ、危ないよ!」。私はなんども敏弘をとらえ、抱きかかえて坪中の奥へ連れ戻した。そのたびに私の足はふらついた。兄とは言えない、まだ頼りない足だった。敏弘はすぐに這いずり回る。私はまた追う。万事休す。「ドブン」。水しぶきが上がった。敏弘が水路へ落ちた。20メートルほど先には鉄製の大きな水車が荒々しく回っている。敏弘が水車へ向かって流れている。笹や小さな木の葉も流れている。私は敏弘を見つめたまま、呆然と立ち竦んだ。水車の5メートルほど手前には、最後の砦を成す金属製の丸棒が数本横並びに立てかけてある。ところが、壊れていたのか防護柵は用無しだった。「ゴン」。回っていた水車が止まった。母が血相を変えて、母屋から飛び出して来た。母は、敏弘を抱いて母屋の中に消えた。瞬間、敏弘の命が消えた。(さようなら)。私には、敏弘の最後の姿を見に行く勇気はなかった。(追認事項、公募単行本、応募入選掲載)。『さようなら物語』(選:立松和平・池田理代子。双葉社:2000年4月30日第一刷発行)。さまざまな別れのかたちをしみじみ味わう【38の物語】、「忘れられない私の別れ」作品集。『別れの川』(神奈川県鎌倉市、1940生まれ)。つらい別れだったせいか、1000編ほどの応募作品の中から、当代人気の二人の選者が選び、かつ市販の単行本に、7ページぶんわが作品が掲載されていた。ときおり私は、書棚から取り出し、兄として弟をつらく偲んでいる。いくら謝っても果たせない、涙タラタラ落ちる罪つぐないである。

♪古閑さんへ『庭の花』の感想です♪

古閑さん、今回も鮮やかで素晴らしい花々ですね♪♪♪
古閑さん御宅の庭は、狭いようには見えませんよーーー!!!

新鮮な野菜

 望月窯ではキャベツ等新鮮な野菜が採れて良かったですね。そして梅ジャムまで。さぞかし美味いことだろうと思います。我が家でも妻が梅を買ってきて昨日梅酒を作りました。私は、・・・・恥ずかしながら作れません。

♪大沢先生へ本日の『望月窯だより』の感想です!!!!

今年の『望月窯畑』の収穫は、”大大大大豊作”でなによりです♪♪♪♪
大沢先生の日々のお手入れの賜物ですね!!!!
先日、店で仕事をしていたら、お客さんから「青梅ありますか?」と聞かれました。
棚にはありませんでしたので、「入荷していないので、ありません。申し訳ございません」と答えました。
たぶん、梅酒用の青梅かと思いましたが、大沢先生のように『梅ジャム』も聞いただけでも爽やか感があり、イイなぁーーと思いました(^^)

望月窯だより

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古河の実家の畑の続きです。今年は紅梅の梅の実が沢山なった。何時の年だったかその年も実が沢山なったので収穫を楽しみにしていたら、いつの間にか消えて無くなっていた。今年はそれに懲りて、少し早かったけれど青梅を収穫した。そして、梅ジャムを作った。苦みがあったので妹のスマホで調べてあく抜きが足りないことが判明した。そこで丁寧に辛抱強くあく抜きをしたらまだ少し苦みは残っていたが、甘酸っぱい爽やかな味になった。大成功である。
 キャベツは冬を越して葉ばかりがどんどんおおきくなっていったが巻かないので諦め気分でそのままにしていたら、やっと巻き始めて、今回の収穫となった。大根も手頃な大きさになって収穫できた。少しずつではあるが、農作業のこつのようなものがわかってきた。
 夏野菜に棒を立てたり、藁を敷いたりと手入れは色々あるが、収穫を楽しみにせっせと野良仕事をして、後ろ髪引かれる思いで帰路についた。

連載『自分史・私』、5日目

父・前田吾市は、明治18年2月10日、熊本県鹿本郡内田村に生まれた。父は、父親・彦三郎と母親・ミエの三番目の子どもであり、姉二人の次に一人息子(長男)として生まれている。父が生まれたところは、村内では小伏野集落と言った。しかしそこから移り、人生の大半を過ごしたところは田中井手集落だった。父は内田川をあてにして水車を回し、精米業を営むために、ここへ移り住んだのである。だけど、「前田家累代之墓」は、今なお誕生地・小伏野集落の小高い丘の中にある。当時の田中井手集落には、わが家、隣家、向かえの家の、三軒があったにすぎない。わが家と隣家の間には水車を回し、双方に動力を伝えて、共に農家を兼ねた精米業で暮らしを立てていた。僅かに三軒にすぎなかったけれど、三軒とも大家族をなしていた。ちなみに隣家には11人、向かえの家は8人家族である。父は明治41年7月、村内にある辻集落の鶴井トジュ様と結婚した。新郎23歳、新婦20歳の若いカップルだった。二人は、長男護、長姉スイコ、二男利行、二女キヨコ、三男利清を誕生させた。戸籍簿上ではもうひとり、ハルミの名がある。ところが、何らかの事故で幼命を断っている。父にとっては先妻、私にとっては異母となるトジュ様は、享年35歳で他界している。その後の父は、大正14年7月、私の母となる早田トマルと二度目の結婚をした。母の里・井尻集落は、父が住む田中井手集落からは内田川や田んぼを挟んで、見えるところにある。再び花婿となった父の年齢は40歳、初々しい新婦は21歳だった。母は5人の子どもたちを連れた父の男ぶりに惚れたのか。それとも、父のもとへ嫁がなければならないのっぴきならない事情があったのか。私は前者であって欲しいと願った。ところが後者、実際には母の「父助け」があったようである。私は昭和15年7月15日、父の13番目、母の7番目の子どもとして生まれた。あえてきょうだいの名を記すとこうである。長姉セツコ、長兄一良、二姉テルコ、二兄次弘、三兄豊、四兄良弘、私、弟敏弘である。私が生まれて成長し始めると父は、拙い節回しで『丸まる坊主の禿げ頭……』とか、『箱根八里は馬でも越すが……』などと歌って、私をはやし、父ははしゃいだ。ときには父は、「どれどれ、また大きくなったかな。おお、大きくなっているぞ、天まで昇れ……」と言っては抱いて、高々と持ち上げた。父は背が高く骨太隆々で、まるで仁王のようであった。「気は優しくて力持ち」。物心がつき始めた私が見る、父にたいする第一印象であった。

♪”望月窯=現代文藝社古河支社”♪

大沢先生、望月窯での農作業のお仕事、たいへんお疲れさまでございました。
広大な望月窯での野菜の収穫量の多さは、ぜんぜん違いますねーーー!!!
“大沢先生御宅=現代文藝社和光本社”ですから、”望月窯=現代文藝社古河支社”のように感じています♪♪