掲示板

坂本弘司撮影

雪の上の足跡

 雪の上の足跡、ウサギで良かったですね。人間の足跡だったらゾッとします。それにしても野ウサギが通るのを見てみたいものです。

雪のあと

2024_02_10motukigama1-0.jpg 2024_02_10motukigama2-1.jpg 2024_02_10motukigama3-2.jpg

 今週は火曜日(六日)~二泊三日を予定していた実家行き(望月窯)だったが、雪降りの後だったので予定を変更して木曜日(八日)から出かけて本日帰宅した。朝晩は厳しい寒さだったが、日中は太陽の恵みを受けて、ぽかぽか陽気だった。前回はベンチと縁側のペンキを塗ったが、今回はベランダの柵を塗った。それから長年積んでいた落葉の下方部分に溜まった腐葉土を畑の方へ運んだ。毎年草取りに追われてなかなか出来なかったが、ようやく作業が計画通りになり、だいぶ前から少しずつ始めていた。
 降り積もった雪が解けずにまだ残っていた。雪の上には何物かの足跡がついていて、解け始めた部分がまるで人間の靴跡みたいに見えて、はじめは誰かが通ったんじゃないかと気味悪く思ったが、よく観察してみると、動物のようだった。点々とついている形がどうやらウサギが跳ねて通ったのだと二人で納得した。
 楽しいひとときだった。

名残り雪

明日の「建国記念の日」(日曜日)に続く「振替休日」(月曜日)を含めて、三連休の初日(2月10日・土曜日)が訪れている。現在のデジタル時刻は、未だ夜明け前にある(4:39)。わが身を襲う寒気は緩んで、確かな「春の足音」が響いている。いくつか、道路脇に薄汚れた「小だるま」みたいに縮こまっていた最終の雪の姿は、まるで炬燵の上の「まん丸の猫背」のように見えていた。ところが、この光景もきのうですべて消えて、視界一面には平常の風景が現れ、つれて人の生活は、ほぼ三日前の日常に復していた。いくらか、気が早いけれどこののちに降る雪は、季節忘れの「名残り雪」と言えそうである。名残り雪には二つの意味があると言う。一つは雪の多い地方で春になっても消えず残っている雪という意味であり、一つは春に降る雪という意味である。わが用いた名残り雪は、もちろん後者である。しかしながら、この先(2月29日)までの間に再び降れば、名残り雪とは言えそうにない。するとたちまち、わが貧弱な脳髄は混迷に陥ることとなる。挙句、「また、降った」と言って、お茶を濁す羽目になる。このところの私は、みずからの怠け心にみずから鞭打って、かなり気張って文章を書いてきた。ところがその文章は、長いだけのだらだら文に堕していた。このことで、私は疲れた。ところが、ご好意で読んでくださるご常連の人たちには、はるかに疲労をいや増している。だからきょうはそれを詫びて、文章とは言えない文章のままで、書き止めるつもりである。しかし、先ずは身勝手に、わが指先を休めたいと思う。ご常連の人たちもまた、疲れている気分を休めて、春先の三連休をたっぷりと楽しんでほしいと、願うところである。気象予報士が伝えた三日間の予報には雪降りの徴(しるし)は見えず、ぽかぽか陽気の春モードになっていた。野原を周遊すれば、「つくしんぼ」が立ち始めているかもしれない。ウグイスは藪の中で、「チチ、チチ」と鳴いて、トレーニング中かもしれない。表題は二つの意味をおさらいしたことから、ズバリ「名残り雪」でいいだろう。夜明けの光はまだ見えない。

髙橋弘樹様へ、御礼

いつもいつも、大大大エールを賜り、感謝と御礼申し上げます。おかげさまで、激痛は和らいでいます。

♪HIROKIのタレント日記♪

IMG_8873.jpeg

《北浦和駅西口に雪だるまが出現していた!!》
降雪から4日経ちましたが、きょうの昼間、初めて気が付きました◎◎ナント!! 北浦和駅西口に雪だるまが出現していたのです◎◎
西口の左側は、あまり通らないので、通りかかってビックリ!! でした。
身長は目測で1メートルぐらいかと思われます。
この雪だるまの前が実はお寿司屋さんなのですが、板さんが雪かきついでに愛嬌で雪だるまを作ったのかな?? などと想像をめぐらし、最初は通り過ぎましたが、オモシロそうでしたので、引き返して(笑)、写メを撮りました。
そこで、このオモシロイ気持ちのまま、☆第2回オモシロ写メ大賞☆へエントリーしたところ、「確かにオモシロイけれど、奇想天外さに欠ける」という事で、自分が審査委員長であるにもかかわらず、受賞できませんでした↓↓(大笑)。
そんなこんなで、この大きな雪だるまは、いつまで続くのだろうか、と気になる存在となった瞬間でした。

♪前田さんへメッセージです♪

前田さん、昨日は腰回りの激痛が快復されて、なによりでしたね。
やはり、普段から行ないが正しい前田さんは、御釈迦様 マリア様 イエス様が見放すはずはなく、御加護を受けていらっしゃいます。
ぼくも前田さんへ祈りを捧げているところです。
きょうも前田さんへ”大大大エール”を贈ります(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/

このたびの降雪の、粋なつぐない

きのう(2月8日・木曜日)のNHKテレビニュースには、いっとき「針供養」の情景が現れた。思いがけない映像を観て、わが内心はほっとした。なぜなら、(バカなことを書いてしまい、大恥を晒したな!…)と、思っていたからである。このたびの降雪は、二度の空振りを恥じて、人間界へ詫びているのか。それとも、降雪の償いでもしているのか。もちろん降雪の外れは、恥じることも詫びることもまったくない。むしろ外れは、人間界に多大の恩恵をもたらしている。一方、人間界にたいする降雪の償いであれば、後処理は素晴らしい出来栄えである。なぜなら、このたびの降雪は、一気に寒気を遠のけて、いち早く「春」を呼び込んでくれている。これに、わが「太陽崇拝」の証しである「日光」が加勢し、一日にして視界の雪はほぼ消えて、視界は平常風景に復している。残るは「小だるま」程度にこじんまりと縮んでいる、ところどころの道路脇に撥ね退けられている風景だけである。このたびの降雪は、確かに春を呼び込んでいる。その証しにきのうの鎌倉地方には、春を思わすポカポカ日光がふりそそいだ。日光は陽気と換言していいのかもしれない。なぜなら、ふりそそぐ日光は、茶の間のソファに背もたれていたわが重い腰を、「すぐに、外へ行け!」とばかりに、揺さぶった。わが重い腰は、素直に呼応した。午前中の私は、いつもの大船(鎌倉市)街へ買い物に出かけた。往復、「定期循環・江ノ電バス(本社・藤沢市)に乗車した。そして、午後の三時過ぎには、当住宅地内にある唯一の医院、すなわち掛かりつけの「S医院」の外来へ、歩いて出かけた。この間の道のりは、わが家から片道15分弱である。薬剤切れにともなう、ほぼ一か月ごとに訪れる通院である。診察室では毎度、普段話程度で済む、三分間診察の典型である。ところがこの通院が、わが命果てるまで続くとなれば、身の毛がよだつ思いに駆られるのは、薬剤費の多額の入用である。なぜなら、処方箋料と二つの薬剤費を合わせると決まって私は、毎回5000円近くを払う羽目になっている。ところが、きのうの通院にあっては途中、私は(この場で命が絶たれるかもしれないな…)という、思いに苛まれたのである。突然のこの思いの発端は、歩くことが困難になるほどの腰回りの激痛だった。歩いては激痛を堪えて、立ち止まり、また歩いてはまた立ち止り、を繰り返した。それゆえに途中の私は、スマホに留めているタクシー会社の一つ、「大船中央交通」へ電話をかけて、大船からタクシーを呼ぼうと思った。ところがそれは思い留めて、40分ほどかけてようやくS医院へたどり着いた。待合室では、帰りの足に思案をめぐらした。ところが帰りの足は奇跡なのか、いつもの足取りに復しており、行きに遭遇した困難を免れたのである。気象予報士が伝えるこの先の天気予報は、高気温に恵まれ、もはや春模様の予報だった。このたびの降雪は人間界にたいし、箆棒にありがたい償い果たしたようである。突然の腰回りの激痛は余興で済んで、現在の私は胸をなでおろしている。いまだ夜明け前にあって、夜明けの天気を知ることはできない。しかし寒気は緩んで、わが身体は確かな春の訪れを感じている。たぶん、降雪の粋な償いのゆえであろう。

無題

恥さらしの文章を長々と書いて、なさけなく、そして詫びています。

雪やんで、思うこと

2月8日(木曜日)。日に日に日長へ向かっている。早くなりつつある夜明け前にあって、寒気は緩んでいる。寒気の緩みは紛れもなく、現在は隠れている太陽のおかげである。台風一過にはおおむね、満天に胸の透く日本晴れが訪れる。降雪や積雪の後によく雨が降り、早々と雪解けをもたらすことがある。しかしながらこれには、おかげという誉めことばはつけたくない。確かに、積雪を溶かす雨にも、少しはありがたみがある。けれど、降りすぎればじめじめした陰気をもたらし、半面、憎たらしくなる。ところが、日光の恵みには外連味(けれんみ)なく、いつなんどきも胸の透くありがたみがある。日光は限りない恩恵をしかも、無償で恵んでくれる。おれゆえに私は、日光と言わず隠れている太陽にたいしても常々、「太陽崇拝」に凝り固まっている。人の世にあっては、いの一番は太陽(日光)、次には月(月光)、相そろって恵み得るものはほかにない。すなわち、この二つから得られる恩恵は、雲隠れしていようと、姿を現していようと、共に無限である。それなのにカレンダー上には、これらを供養する歳時(記)は見当たらない。このことでは人間は無恥であり、人間の驕りなのかもしれない。降雪から積雪に風景を変えたきのうの鎌倉地方には、まるで台風一過のごとくに、胸の透く日本晴れが訪れた。太陽が日光と呼び名を変えて、暖気をともなって地上に満遍なく降りそそいだ。そして、日光の恩恵は、一気に「春」を誘い出していた。さて、カレンダー上にはきょうは、「針供養」の添え書きがある。それゆえに私は、手元にある電子辞書を開いた。以下は、指先不自由の私にとっては、きわめて骨の折れる作業だけれど、全文を読んで移記するものである。ネタ不足に悩み、やむにやまれぬいたずら書きとも言える。恥を晒してこんなことまでもしなければ、「ひぐらしの記、単行本、夢の100集」など、夢のまた夢である。心中、なさけなく、ひたすら詫びるところである。【針供養】「2月8日または12月8日に、針仕事を休み、折れた針を集めて豆腐やこんにゃくに刺して供養すること。淡島神社に納めるなどする。淡島神社:①日本神話で伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)が生んだという島。②日本神話で少彦名神(すくなびこなのかみ)がそこから常世に渡ったという島。③和歌山市にある淡島神社。最新は少彦名神。各地に分祀。婦人病に霊験があるとされる。また神の名を針才天女とも伝え針供養が行われる。加太神社。淡島(粟島)明神」。太陽および月にこそ供養が定着してほしい、人の世の習わしである。私は供養がわりに常々、「日光、月光」と言って、神様は要なしに両者を崇めまくっている。針供養にすがり結文が早すぎて、未だ夜明けの光は見えず、残念無念である。

残雪の夜明け

2月7日(水曜日)、私は未だ夜の静寂(しじま)の中に居る。このたびの降雪予報はズバリ当たり、気象庁と気象予報士は、面目の丸潰れを免れている。専門家という職業柄、内心ではかなり安堵しているであろう。予報が外れて、文句を言う人たちは多くない。私の場合は、あからさまに外れてほしいと願っていた。ところが、三度目の正直をなして、予報はズバリ当たった。鎌倉地方における雪の降り出しは、おととい(2月5日・月曜日)の昼過ぎだった。このときの私は、茶の間のソファに背もたれていた。それゆえにあえて私は、降り出した時刻(午後12時13分)を掲示板に投稿した。明くるきのう(2月6日・火曜日)は、視界いっぱいに広がる、雪景色の朝を迎えた。昼間にあっては雪も雨は降らず、そのうえ日光も出ずじまいで、住宅地には一日じゅう、曇天の雪国風景が訪れていた。この風景を見ているとわが思いは、能登半島を中心とする震災被災地と震災被災者へ駆けていた。それは難渋する日常生活に、重なる雪景色の切なさであった。降り出し、明けての雪の朝から、時は進んで現在は三日目にある。きょうもまた私は、起き出して来るやいなや窓辺に立って、二重のカーテンと窓ガラスを開いた。そして、きのうに続いて、一基の外灯が灯す道路を凝視した。すると、道路の中ほどの積雪は除かれ、道路の側面に沿って、撥ねのけられている。雪を撥ねのけたのは人為ではなく、行き交う車輪だった。スコップを持たない私の場合は、雪掻きはできずじまいだった。隣近辺の人たちであっても、わが家周りの道路の雪掻きをしている人たちは見受けなかった。それはたぶん、積雪自体が思いのほか少なかったせいであろう。これは案外、天界いや気象の粋な計らいだったのかもしれない。昼御飯を終えると私は、住宅地内にある個人商店まがいの小規模の郵便局へ出向いた。次号90集の『少年』の校正済原稿と、記入済の確定申告書を携えての出向きだった。出かけるとき、交わした老夫婦の会話のやり取りのほぼ全容はこうである。現場のまずは、玄関口内の土間である。「これから、郵便局へ行ってくるよ」「パパってバカねー。雪が降ったのよ。道路にはたくさん積もってるのよ。こんな日に、なぜ行くのよ。あした日行けばいいじゃないのよ。転ぶと危ないじゃないの…」「雪が降ってるのは知ってるよ。だけど、これから行くよ。気に懸かっていることは、早く済ましたいからね」私は、玄関ドアを開いた。妻は突っかけを履いて土間に下りた。会話の第二現場は、玄関ドアをちょっぴり開いてと変わった。玄関口から門口までには、コンクリート造りの三段ほどの階段がある。階段および周辺には、隙間なく雪が積もっている。私が足下に注意して階段を下り始めると、玄関ドアを少しだけ開けた、妻の声が追っかけた。「パパ。雪がたくさん積もってるじゃないのよ。滑るわよ、行かないで! 転ぶわよ、行かないで!…」「行くよ。大丈夫だよ。おれは転げないよ。保険には入っていないし、転ぶと自損だから、おれは転げないよ。転げないように歩くよ」「絶対、転んじゃ駄目よ」「転げないよ。保険に入っていれば、わざと転ぶけどね…」進んでゆく道すがらには幾人かが、スコップを手にして雪掻きをしていた。それらの人たちは、道路の中ほどの雪を道路脇に撥ねのけていた。それらの人たち出会うたびにわが心中には、済まない気持ちが充満した。私は感謝と会釈代わりに、俯き加減に通り抜けた。わが心中には、(すみません)とか、(ありがとうございます)とか、言えばよかったという、自責の念が渦巻いた。雪の降り出しの一日目、雪の朝の二日目、そして残雪の三日目にあってわが身体は、冷凍室まがいのパソコン部屋に慣れたのか、寒気は薄らいでいる。咳も鼻水も遠のいている。ただ、くだらない文章を書いてしまった。それゆえに、自責の念はいや増している。雪降り風景の一幕が下りて、残雪の夜明けは穏やかである。