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坂本弘司撮影

春は過ぎる

4月24日(水曜日)。小雨そぼ降る晩春の夜明けが訪れている。このところ、朝日はかくれんぼしている。せっかくの好季節にあって、腑に落ちないところである。しかし、地震が起きなければ、泣き言はご法度である。なぜなら、自然界の恵みは、やはり箆棒である。桜は北上を続けて、北の地方では、今なお花見どきにある。当地(鎌倉)で葉桜を深める桜木とて、仰げば花見気分横溢の興趣にありつける。まさしく桜は、咲いて良し、散りて好し、葉桜もまた佳しの風景である。あれほど待ち望んでいた春3月と4月、季節を分ければ、初春、中春、そして晩春となり、総じて残りは一週になり、こののち季節を変える。季節のめぐりに応じて、人の世における別れの月、出会いの月も過ぎてゆく。人情のはぐくむ別れと出会いは、文字どおり悲喜交々である。ところが私の場合は、喜び少なく、悲しさ多く過ぎてゆく。気張って「哀歓」と書きたいけれど、それは書けず「哀感」一辺倒である。起き立てにあって、こんな無駄文を書いてはお里が知れる。もちろん、恥晒しは厭わない。だけどネタなく、文章はここでおしまいである。気が触(ふ)れている自覚はない。

睡魔に恵まれず、悪魔に襲われている

4月23日(火曜日)。いまだ夜明け前にある。眠気はあるもののほぼ一晩中、悶々として寝つけず、しかたなく起き出している。朦朧頭であっても起きれば、パソコンを起ち上げるしかない、。今や、かなしくつらい、わが性(さが)である。悶える目覚めには、様々なことが心中に堂々巡りする。これがまた、寝入りを阻害する。こんなことを浮かべていた。文章を書くことには苦痛がともない、愉しみはない。半面、文章を書くことには、こんなご利益、利得、効果がある。一つは、心中に絶えず語句や言葉をめぐらしていることで、おのずから認知症の予防になる。一つは、文章を通して人様との出会いがある。一つは、薄らぐ記憶が確かな記録へ替わる。そして、このことは、大沢さまのご厚意にさずかるものだけれど、書けば製本(単行本)にありつける。双方を天秤にかければやはり、後者が重たいのであろう。現在、目玉は冴えている。けれど、脳髄は鈍重である。それゆえに文章はここで打ち切り、試しに寝床へのとんぼ返りを試みる。幸いなるかな! こんなダメ文では、苦痛はともなわない。薄く明け行く夜明けの空は、雨模様である。ウグイスは私とは違がって、まだ塒(ねぐら)に鼾(いびき)も立てず、スヤスヤ眠っている。

「文明の利器」(情報媒体)

4月22日(月曜日)。小雨降る夜が明けている。起きてネタなく、何を書こうかと、呻吟している。挙句、焼けのやんぱち気分である。そのせいであろうか、心の片隅にこんなことが浮かんでいる。主にそれらは、映画、ラジオ、テレビ、電話(固定・携帯)、パソコン、スマホ、加えて新聞、書籍、写真などである。言うなればこれらは、わが生涯においてさずかっている「文明の利器」(情報媒体)である。これらは折節において、「口・耳・目などの学問」を恵んできた。そして、広く社会学、わが日常において、多大な潤いをもたらしてくれた。いや過去形ではなく、今なお現在形でさずかっている。子どもの頃に限定すれば、新聞とラジオは日常生活の大きな愉しみだった。やがて、映画(写真)、電話(固定)、そしてテレビが追っかけた。この間、教科書をはじめ雑誌類(わが愛読書・少年クラブなど)では、いろんな情報をさずかった。そしてこれらは、これまでのわが生存期間(83年)において消滅することなく、いまだに社会貢献を果たしている。このことでは、悦ぶべきことであろう。子どもの頃に三本立て映画を見に出かけたときの愉しみと、テレビを初めて観たときの興奮は、今なおありありとよみがえる。わが家に固定電話が引かれたときのうれしさもまた、強くよみがえる。総じて文明の利器(情報媒体)にさずかった初っ端の興奮度は、どれもこれもが忘れがたくよみがえる。冒頭に並べた文明の利器(情報媒体)を眺めていると、まさしくそれらの進化とそれにともなう社会の変容が読み取れる。そして、これらの総括編を成す機能は、現下の「スマホ」に織り込まれている。文明の利器(情報媒体)は、この先もスマホを超えて進化を続けること請け合いである。しかしながらわが存命は短く、それにあずかることはできない。いや、もうそんな欲得はない。なぜなら、日々、スマホの扱いに翻弄されているからである。加えて、情報端末機(いろんなカード類を含めて)の進化は、日々わが足りない知能を脅かし続けている。文明の利器(情報媒体)に脅かされなければ案外、わが生涯は「楽ちん」だったのかもしれない。パソコントラブルには、寸時、怯えている。雨が強まる夜明けとはいえ、自然界の恵みにはとことん心安らぐところがある。

マイナス思考、かつマイナス文章

4月21日(日曜日)。朝日は雲隠れしているけれど、それでもすでに明るい夜明けが訪れている。地震に因る身体の揺れもなく、穏やかな夜明けである。それなのに私は、心中にこんなことを浮かべて起き出している。わがマイナス思考の文章は、確かに人様のやる気(士気)を殺いでいる。このことでは、謹んで詫びなければならない。いや、もう書いてはいけないのであろう。ところが、わがマイナス思考、そしてそれにつきまとうマイナス文章は、わが継続文の根幹を成している。このことを恥じれば、おのずから文章は沙汰止みとなる。終末人生を生きる私には、実際のところ明るいネタとそれをこしらえる能力(脳力)はない。日々、ようよう綴る文章は、生きている証しを担っているにすぎない。だから、マイナス思考の塊ではあっても、これにともなう文章が途絶えた時は、「わが絶命時」である。生来、わが性癖にはいろんな悪癖がある。もとより、精神のマイナス思考、そして文章を書けば大袈裟な表現、この二つもそれらの範疇に入る。なぜ私は、わが能力の埒外にある文章を書き続けているのであろうか。能無しの私は、こんな苦衷、止めれば済むことである。なさけなくも、この自問を常に繰り返している。このことをほぼ十分間書いて、きょうは書き止めである。なぜなら、マイナス思考の文章が人様に迷惑かけていることを案じて、心身をひととき謹慎すべきと心得ているためである。繰り返すけれどこのところ、ウグイスの鳴き声が途絶えている。マイナス思考かつそれによるマイナス文章は、ウグイスにまで迷惑をかけて、ソッポを向かれているのであろうか。終末人生はどう生きて、どんな文章を書けばいいのであろうか。雲が切れて、朝日が輝き始めている夜明けにあって、私は嘆いて、思案にくれている。

♪前田さんへメッセージです♪

少し視点を変えてみたらいかがでしょうか?
例えば、いつも買い物をしている店をあえて外して、他の店で買い物をしてみる、いつもの店には置いてない商品があったりするかもしれません。
すき家で食事をされる場合も、いつもの店ではなく、近隣の違うすき家で食事をしてみる、店内のレイアウトとか店員さんの雰囲気も違って、”新たな発見!!”もあるのではないでしょうか?
それから、前田さんの御自宅近くでも、普段から通らない所もあるかと思いますが、遠回りになるかもしれませんが、わざと通ってみるとか、いかがでしょうか?
景色や家並みがいつものコースと違って、”新鮮さを感じる”のではないでしょうか。
要するに、野球に例えるならば、「いつもストレートで勝負しているけれど、今度からは変化球でも勝負してみる!!」という事だと思います!!
今回も前田さんへ”大大大エール”を贈ります(^^)/~~~(^^)/~~~(^^)/~~~(^^)/~~~(^^)/~~~(^^)/~~~(^^)/~~~

♪大沢先生へ『望月窯だより』の感想です♪

『姫リンゴ』、先生の剪定のおかげで、たくさん花が咲いてなによりですね♪♪♪♪♪♪♪
今年は、たくさんの実が成ることでしょうね◯◯◯◯◯◯◯
画像を楽しみにしています(^^)

『藤の花』も咲いてなによりですね♪♪♪♪♪♪♪
御母様もあちらの世界で、大喜びのことでしょうね*(^o^)/*

望月窯だより

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 母が大事にしていた藤を花が咲かないまま、手入れの余裕もなく面倒で、毎年伸びた蔓を無造作に切り詰めていた。数年前に思い立って、駐車場に続く私道の脇に蔓を這わせることにした。手入れをしても花が咲くことはなかったので、花の時期も気付かずに気にもとめていなかった。ところが、今週の初めに訪れて帰宅するとき、家の周りを見回っていたら、なんと藤の花房が垂れ下がっているのが目に留まった。
「咲いた、咲いた。藤の花が咲いた」
 私は思わずカメラを取り出してシャッターを切った。曇っていたのでうまく撮れなかったが、この次訪れた時にはもう花は終わっているだろう。今度からもっと丁寧に世話をしようと心に決めた。

望月窯だより

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古河の実家に姫リンゴの木がある。小さな赤い実はりんごにそっくりで、いつだったか妹が「おいしそうだよね。食べられないのかな」と思い立ってネットで調べた。ジャムに出来るということだった。それならば、是非挑戦してみようと実が成るのを楽しみにしていたが、そう気がついたときには長い間ほったらかしにしていたので、実が成らないどころか、花も咲かなくなった。昨年は時期に合わせて剪定した。そして、今年花盛りになった。実が成るのが楽しみだ。

追い詰められて「とんずら」

4月20日(土曜日)、もちろん、いい加減な気持ちではなく、必死に書いている。しかし、このところは、文章とは言えないものばかりである。ゆえに気分は、袋小路に入っている状態にある。挙句、そこから逃げ出すことにもがいている。これにちなんで心中には、二つの成句が浮かんでいる。困ったときの助太刀すがりで、電子辞書を開いた。【窮鼠猫を噛む】「絶体絶命の窮地に追い詰められれば、弱者といえども強者を打ち破ることがあるというたとえ」。【袋の鼠、あるいは袋の中の鼠】「追い詰められて逃げ場のないことのたとえ」。あえて、電子辞書にすがるまでもない簡易な成句である。ところがどちらも、わが現在の心象には当を得なくて、しかたなく「袋小路に入っている」という成句を用いた。ああああ…、きょうも書くまでもない文章を書いている。こんな状態のときには【三十六計逃げるに如かず】という成句(諺)がある。これまた簡易な日常語である。だけど、再び電子辞書を開いた。「形勢が不利になったときには、あれこれと策を用いるよりも、逃げてしまうのが最良の方法であるということ。また、厄介なことが起きたときには、逃げるのが得策であるということ」。厄介ではないけれど、まともな文章が書けず、私は「とんずら」を決め込んだ。【とんずら】「とん」は遁走(とんそう)、「ずら」は「ずらかる」の意。犯罪をおかして逃げることをいう俗語。もちろん、碌な文章しか書けないことは犯罪ではない。しかしながらわが心象は、それに似た状態にある。のどかに、夜明けが訪れている。ところが今朝もまた、ウグイスは朝寝坊を決め込んでいる。声援(音)無しの電子辞書しかすがれるもののない、わが身は哀れである。ウグイスは、私に愛想尽かしをしているのであろうか。たぶん、そうかもしれない。朝日は輝きを増し始めている。

ありがとうございます。

 大沢さん、高橋さん花の写真の感想ありがとうございます。