掲示板

坂本弘司撮影

生きている

3月9日(土曜日)。今現在は(4:45)、生きて起きている。しかし、この先はわからない。命の絶えは、時を置かずかつ一瞬である。窓を開けた。雨や雪はなく、風も感じない。窓を閉めた。それでも、寒気が身に沁みる。おのずから心中に浮かぶのは、「能登半島地震」における、震災地の復旧具合と被災者の生活ぶりである。テレビニュースが伝える悲惨きわまりない映像は、今しばらくは消えそうにない。しかしながら、被災地と被災者は置いてきぼりにされたままで、やがて映像は遠ざかる。メデイア、いや人の世の宿命である。なぜなら、人の世にあっては、新たに伝えなければならない出来事が日々追っかけ、ぐるぐる駆けめぐる。この中にあって人の命は、芥子粒ほどに小さいものである。だけど、人の命はゴミ芥(あくた)とは異なり、取るに足らないものではない。やはり、人の命は尊厳である。だから、個々人はもとより、社会全体で大事大切にしなければならない。寝言いまだ消え去らず、こんなことを書いて、きょうはおしまいである。私は温もりのある映像を欲しがっている。いや、だれでも欲しがっている。ネタなく書いたけれど、夜明けはまだ先である(5:16)。人工のもたらす春は遠くても、能登半島には陽射し暖かい、春の訪れを願っている。

♪前田さんへメッセージです♪

今朝は、夜勤明けでしたが、雪化粧しているところが多数ありましたが(線路脇や民家の屋根・駐車している車です)、積もったりせず、歩行も良好・傘無しでも大丈夫でした!!
早くに止んでよかったですね(^^)
保育士の友達から「子どもたちと外で雪遊びしたよー。遊ぶには、雪が少なかったな。。。」とのLINEがきました。
雪が降って喜ぶのは、子どもたちだけですが、今朝は、大人は喜び、子どもにとってはイマイチといった天気でしたね(笑)。

♪大沢先生へメッセージです♪

「春なのに冬みたい!!」な状況下の望月窯行き、たいへんお疲れさまでございました。
野木駅周辺は、オモシロい被写体が多数存在していて、本当に楽しくなりますね♪♪
今回は、『猫と犬に見える庭木』で、楽しさ&オモシロさ200%以上です↑↑

望月窯だより

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雪の予報が流れる五日から二泊三日で古河の実家を訪れた。このところの思わせぶりな春の訪れをくつがえして、冬の寒さに逆戻りである。グンと背丈を伸ばして春待ち顔だった庭の水仙が、身を縮めて震えている寒々とした望月窯の風景である。

あれ、猫かしら?

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 実家から帰宅途中の野木駅のホームから眺める景色は、いつも楽しい。今回は、ホームに並んで立っていると相棒の妹が、「お姉ちゃん、猫が座っているよ」と声をあげた。遠くブロック塀の所に猫と犬が向かい合っているような。よくよく見ると、白い布で覆われた庭木のように見える。それにしても、二匹が何やら会話をしているような姿である。近くまで行って確かめられないのが残念だけれど、想像するに、ソテツか何かの植栽を布で覆っているように見える。暖かくなったらきっと外されるだろうから、正体がわかるのだろう。

小雪の夜明け

3月8日(金曜日)。きのうに続いて、パソコンを起ち上げる前に、二つの行為をした。今や、起き出して来て、ほぼ行うルーチン(決まり切った行為・動作)である。きのうの気象予報士は、きょうの天気予報に際して、関東地方には降雪と伝えた。天気図上のわが住む鎌倉辺りには、東京都内と変わらず2~5センチ程度の積雪を伝えた。それゆえにきょうは、まずは雪模様の確認であった。私は傍らの窓ガラスに掛かる二重のカーテンを撥ね退けて、窓ガラスを通して外を眺めた。すると目の前に、小雨か、霙(みぞれ)か、小雪みたいなものがちらついた。身体が冷えていて、私には窓ガラスを開いて右腕を外気に差し出す勇気はなかった。なさけない、心許ない外気の確認である。そののちは足を運んで、私は雨戸を閉めていない前面の窓ガラス際に立った。ここに立てば窓ガラスを通して一目瞭然、外の様子が見渡せるからである。一基の外灯は、直下の道路のみならず、近くに建つ家並みを照らしていた。道路は濡れていたけれど、薄い雪さえなく、普段の雨降りの道路だった。この先、予報を違えず霙や雪に変わったとしても、現在は小雨模様である。きのうに続いて私は、カレンダー上の添え書き、すなわち歳時(記)を確認した。すると、きょうには「国際女性デー」と記されていた。私には、きのうのNHKテレビニュースの一つがよみがえった。そのニュースは、このことにちなんでいたのかもしれない。いや、確かにそうだったのである。【女性の働きやすさランキング 日本は29か国中27位 英経済誌】(2024年3月7日 11時43分)。「3月8日の『国際女性デー』を前に、イギリスの経済誌『エコノミスト』が、主要な29か国を対象に女性の働きやすさを評価したランキングを発表し、日本は最下位から3番目に」。記事の引用は短く、一部だけにしたけれど、記事の伝えるところは十分に理解できた。日本の国には、悪しき慣習を伝える「男尊女卑」という、言葉が長く根付いている。この言葉を打破し、そして捨てないことには、働き方だけなく日本の国における女性の地位は、この先も男性に対し低い位置に留まるであろう。ゆえにこの汚名の返上は、男性の責任でもある。日本の国における女性の有能さは、最も身近なところで私は、大沢さまから日々、感得・認知している。あれれ! 夜が明けると、前面の窓ガラスを通して見える二軒の屋根の上には、雪がかぶさっている。今のところは一センチ止まりであろうか。それでも、このところの気象予報士の予報は、ズバリ当たっている。私は身を竦(すく)めて、予報の当たりを褒めるどころか恨めしく眺め、そして嘆いている。

春先の気迷い文

3月7日(木曜日)、カレンダー上には「消防記念日」という添え書きがある。起き出して来て窓ガラスを通し、私は真っ先に外の様子を見た。一基の外灯は、風雨なく乾いた道路を照らしていた。わが身体に寒気は遠のいて、私はのんびりとキーを叩き始めている。きのうの昼前あたりから、ようやく陽射しが見え始めた。すると私は、茶の間のソファから立ち上がり、勢い込んで買い物支度を始めた。わが突然の豹変を見て、相対していた妻は、呆気にとられていた。そして、その表情にひとこと加えた。「パパ。買い物へ行くの? また、雨降るわよ!」。「行ってくるよ」。私は普段の買い物のいで立ちで、大船(鎌倉市)の街へ出かけた。買い物を終えて、わが家に帰り着くまで、雨は降らなかった。その後も、風雨は去ったままだった。そして現在(4:20)、風雨および寒気共になく、ようやくこのところの気狂いの気象は落ち着き始めている。夜明けてその先、春の陽気になれば万々歳である。気分が緩んでいるせいか、私は心中にこんなことを浮かべている。現行のわが身体の補強行為は、ざっとこんなところである。すなわち、目には眼鏡、耳には補聴器、そして口内には差し歯と入れ歯がある。一方、命の延長策には有償の医療行為を行っている。それらは、こんなオンパレードである。緑内障の進行防止には一日に一度の点眼液。便通を促す薬剤は朝夕の服用。腎不全と悪玉コレステロールの改善薬剤は、前者は朝一度、後者は夕一度。これらに加えて、予約通院を繰り返しているのには、半年ごとに訪れる緑内障の経過観察がある。これらに無償の散歩、テレビ体操、欲張って軽い筋トレが加われば、命の延長策は「鬼に金棒」である。ところが、生来怠け者の私には、これらはまったくの縁無しである。無償で済むことゆえに、もったいないとは思うけれど、どれも果たせず残念無念である。挙句、身体の補強行為そして命の延長策共に、多額の医療費まみれを被っている。まったくなさけない。きょうはいくらか短く、こんな無粋なことを書いて、結文を決め込んでいる。半面、このところのだらだらの長い文章の償いと詫びとするものである。私は、きょうあたりから春本番の陽気の訪れを願っている。もちろん、地中の虫たちも、願っているはずである。ただ、「救急車」の走り回りだけは、真っ平御免蒙りたいものである。いまだ夜明け遠く、きょうの天気を知ることはできない。

春は悪魔

3月6日(水曜日)、わが身体は寒さでブルブル震えている。いまだ夜明けまでは遠く、夜の佇まいにある(3:52)。、部屋の中は夜の静寂(しじま)とは言えない。なぜなら、戸袋の雨戸は風の音で、頻りに打ち鳴らされている。雨戸を閉めていない前面の窓ガラスには雨垂れが、無数の筋を引いて滂沱のごとく流れ落ちている。窓ガラスを開いて、外の様子を確かめるまでもなく、風雨強い大嵐である。酷(ひど)い寒気に見舞われて、老いの身は甚(いた)く堪(こた)えている。身体を震わしてまで書く文章でもない。長居は無用である。だから、このことだけを書いて、早々に退散を決め込んでいる。きのうの文章は表題に『啓蟄』と記して、春本番の訪れを書いた。実際には啓蟄にともなってズバリ、地中の虫たちの蠢(うごめ)き出しのことを書いた。ところが、きのうは気象予報士の予報が当たり、日本全国津々浦々にあっては、雨、風、雪、加えて寒気がそろう悪天候に見舞われた。わが恐れていた寒の戻り、寒のぶり返しを用いて、挙句、真冬並みの寒さだった。啓蟄にあって春は、季節狂いを演じたのである。そして、季節狂いはきのうで打ち止めとはならず、きょうの現在まで持ち越している。季節は春、とりわけ啓蟄に背いて、とんでもない仕打ちを続行中である。それゆえに、きのう使ったフレーズをきょうも使って、この文章は書き止めである。「季節は嘘つき!」、重ねて「春はごまかし!」。地中の虫たちの地上への這い出しは、余儀なく日延べを食らっている。私もまた、もうしばらく「冬ごもり」を食らっている。春の悪戯(いたずら)とは言えない、「春は悪魔」である。

啓蟄

季節のめぐりはカレンダーに記されている。きょう(3月5日・火曜日)には、二十四節気の一つ「啓蟄(けいちつ)」と、記されている。啓蟄は、机上の電子辞書にすがることもなく知りすぎている。蟄居(ちっきょ)とは、虫が地中に潜っていることを言う。そして、蟄居(ちっきょ)を啓(ひら)くこと、ゆえに啓蟄とは、地中で冬ごもりしていた虫が地上に這い出ることを言う。地上に春が訪れて、冷えきっていた地中は温もり、地中の虫はきょうあたりから蠢(うごめ)き出し、そしてより暖かさを求めて地上へ姿を現してくる。虫たちにとっては、ようやく耐え忍んでいたわが世の春の訪れである。本格的な春の訪れを告げる啓蟄は歓迎するものの一方、ムカデを筆頭に虫嫌いの私には、眉を顰める季節の到来でもある。地上では草木は新たに芽吹き始めて、木の葉や草の葉はすでに、艶々の萌黄色を成している。虫たちの這い出しとは違ってこちらには、何ら恨みつらみはなく、私は日々美的風景に酔いしれている。ちょっとばかり恨みがつのるのは、わが庭中に茂りを強めている雑草の萌え出しである。確かに季節は、啓蟄の訪れに背くことなく早々と、このところ春の証しが現れている。その一つ、「春眠暁を覚えず」の候にあってきょうのわが起き出しは、いつもより遅れをとっている。おのずから執筆時間の切迫(感)に襲われて私は、悪癖すなわち走り書きと殴り書きの抱き合わせを被っている。現在のデジタル時刻は4:49と刻まれている。ところが、春本番の訪れにあっても気象はまだに気まぐれであり、天候不順から脱し切れていない。なぜなら、きのうの気象予報士は、短いこの一週にあっても日本列島の地図(天気図)の上に、雨、風、雪、晴れ、曇りなどのマークを印して、なお、雪崩、真冬並みの寒さなどと、知るかぎりの気象用語を重ねていた。すると、わが心中には(春は嘘つき!)という、フレーズが浮かんでいた。きょうの文章は、書き殴りで「啓蟄」のおさらいである。

春到来

春は「節分」(2月3日)、明けて「立春」(2月4日)からスタートする。そして、「ひな祭り」(3月3日)と「啓蟄」(3月5日)を越えれば、いよいよ「春到来」のゴングが鳴る。こののち、春本番すなわち春の真っ盛りは、「春分の日」(3月20日)辺りであろう。きょう(3月4日・月曜日)の私は、カレンダーが記すことをあえて、心中に浮かべて起き出している。書くまでもないことを書いたのは、これまであれほど虐められてきた寒気が緩んでいて、待ち望んでいた「春」を体感しているからである。現在のデジタル時刻は、4:59と刻まれている。きょうの文章は春到来を告げる、すなわちこのことだけで十分である。なぜなら、季節の恵みが深々とわが心身を潤している。一方では矛盾するようだけれど、わが気分が萎えている。それは、常にわが心身につきまとう六十(歳)の手習いの難儀ゆえである。難儀を類語に置き換えれば苦悶と苦衷になる。六十の手習いにあってわが文章は、何年書こうと育ちきれない雛(ひな)、すなわち「ひよっこ」のままである。だから、女児の「ひな祭り(雛祭り」になぞらえて、わが文章の「雛祭り」でもして、気分を癒したいところである。わが文章の不出来は、凡庸な脳髄と指先不器用の抱き合わせのせいである。それでも、これらにすがらなければ文章は書けない。「針供養」という歳時(記)がある。真似てきょうは、わが脳髄と指先の供養日として、この先は書き止めである。そしてしばし、春到来気分に耽り、これまでの寒気で疲弊している心身を癒すつもりである。この文章の恥晒しは厭(いと)わない。なぜなら、文章を書くたびに私は、恥を晒している。もとより、恥カキは「なれっこ」である。無償の春が来た。十分、満喫したいものだ。寒気は遠のいている。こののち寒気が訪れれば、私は「寒のぶり返し」あるいは「寒の戻り」と書く羽目になる。