掲示板

坂本弘司撮影

香りが届きます

古閑さん、以前に掲示板を賑わせてくださったアーマンディの花ですね。それにフリージアの花々、春の香りが古閑さんのお庭には溢れていますね。今年も始まりましたね。楽しみです。

まるでクリスマス到来

高橋さん、チェッカーベリー、何てかわいらしい実なのでしょう。葉のお似合いですね。そして花屋のお姉さんとの弾むお話は、高橋さんの豊かな日常生活が溢れています。まるで私もその場にお邪魔させてもらっているような気分になります。

歳月の流れ

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今月の二日から四日まで古河の実家へ滞在した。畑も庭もいよいよ春めいて水仙の花が満開だった。真っ赤なボケの花が静かに時を刻んでいた。玄関の庭には毎年楽しみにしているカタクリの花が八年も経った今年、株がようやく三株になって花を咲かせていたが、残念ながら後の祭りだった。それでも株が増えたことは嬉しかった。キャベツが食べ頃になっていて、一つ収穫して食べた。玉ねぎ、ニンニク、ネギ、ニラ、いちご、ブラックベリー、ブルーベリー、らっきょなど生長していて、やっと畑らしくなった。
 今年は畑の方法を変えて、タァツァイ、ビタミン菜の種まきをした。雨模様だったのでグッドタイミングだった。

「年の功」なく、「年の徒」

4月5日(金曜日)。ウグイスのエールを聞けない、雨の夜明けが訪れている。もとより、自力では元気づけはできない。おのずから文章は、身動きの出来ない袋小路に嵌っている。ネタなくこんなことでは、「三十六計逃げるに如かず」である。だから、逃げる。起き立てに浮かんでいたのはこの成句である。「亀の甲より年の功」。長年(83歳)生きている私に、「年の功」はあるであろうかと、自問を試みる。答えは、何一つ浮かばない。結局、私にかぎればこの言葉は、お飾りの「画餅、すなわち絵に描いた餅」にすぎない。逆に、「年の徒(あだ)」を自認するところはかぎりなくある。年の徒ということばは、電子辞書をはじめ数多の国語辞典にはない。なぜなら、わが咄嗟の造語である。きょうはこんな恥さらしを書いて、継続文の足しにしようと決め込んでいる。ネタなく、休むつもりの大恥である。出会いの月4月は、あすとあさっての週末二日を終えると、いよいよ出会いは初々しい佳境状態に入る。街中には、新調の背広やスーツに身を包んだ若者の往来が激しくなる。上下左右に揺れるピカピカのランドセルを背負(しょ)う小学校一年生の登校姿は、時代は変わっても変わりない美しい絵になる光景である。見るたびにどちらも、わが思い出を懐かしくよみがえらせてくれる。過ぎた別れの月3月は、気分切なさの月である。すると、出会いの月4月は、それを撥ね退けて気分がふくよかになる月である。この気分に桜の花が味方をしてくれる。しかしながら、桜の花にすがってばかりでは、散りゆく桜と共に気分は賞味期限を迎えることとなる。やはり人は、桜の花の恵みや他力にすがることなく、自力を強めなければならない。出会いの月は半面、気分は憂鬱にもなる。たぶん、人疲れ(出会い疲れ)なのかもしれない。このことは、つらい思い出である。たった30分ほどの殴り書きとはいえ、ネタない文章は気づかれ旺盛である。ゆえに、結文といたします。雨の夜明けが、憂鬱気分をいや増しているせいもある。あれ! 本来の美声には程遠い、トレーニング中のウグイスの声が聞こえている。

♪HIROKIのタレント日記♪

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《チェッカーベリー》
赤い実に魅せられて、2つ購入しました。
最初から2つしかなかったですけど(笑)。
ぼくは、いつも店員のおねえさんとめいっぱい話をして、店内や店外にある花々を観賞するだけの決っして常連客とは言えない”大大大ひやかし客”もいいところなのですが、1つ¥480×2つ=¥960のところ、1つ¥200×2つ=¥400”という”半額以下セールが開催されていないにもかかわらず”情熱価格”にしていただきました*(^o^)/*\(^o^)/
ぼくの普段の行ないが良かったからでしょうか??(大笑)。
店長さんには、感謝の言葉を伝えました。

チェッカーベリーは、ツツジ科常緑低木、開花期:6月〜7月/結実期:10月〜3月頃で、日当たりと水はけの良い場所•酸性土壌を好み、夏は半日陰で管理するそうです。
それから実は、食用にはならず(大苦笑)
観賞用だそうです↓↓
時間がある時にちゃんとした鉢に植え替えたい、と思います♪♪

頻発する地震にともなう、下種の一考

4月4日(木曜日)。目覚めて起き出してくるままに書く文章は、貧相で何らとりえなく自分自身味気ない。文章は熟考を重ねて書けば、それなりに見栄えするところはある。わかっちゃいるけれど、そうできないのはもとより「身から出た錆」であり、直しようのないわが身の祟りである。こんな心象で書く文章には、ほぼ毎日同じような内容を書き連ねている。ゆえにそのたびに、味気なさはつのるばかりである。こんな文章に一つだけ価値を求めるのは、「継続への挑戦」にすぎない。まさしく、身勝手なふるまいである。「明日はわが身」という成句がある。きのう(4月3日)は、台湾に大きな地震が起きた。国境を限らず、地球上には地震が頻発している。もとより、明日はわが身である。成句の復習には、太身(ふとみ)が細る思いがある。地震が起きるたびにテレビ映像には、凄惨きわまりない光景が映し出される。そのたびに私は、行きたくないあの世へ、地震に遭う前に急いで行きたくなっている。この心境を身勝手というには、なぜか違和感がある。なぜなら、地震への遭遇は地球上に住むかぎり逃れられない宿命である。直近の能登半島地震をはじめ、地震が起きるたびに不可解に思うことが一つある。それは「ボランティア」(奉仕の人)にすがるだけの復旧活動(作業)を見るつらさである。もとより日本列島は、地震にかぎらずいろんな天災(天変地異)まみれである。そうであればボランティアの善意にすがるだけではなく、国が一元的に公的な防災団(機構)を備えておくべきではないだろうか。わが下種の勘繰りをめぐらせば、ボランティア活動(無償)との線引きが難しく、公的機構(有償)の設置には腰が引けているのであろうか。悲惨きわまりない災害現場の映像を見るかぎり、ボランティア活動を褒め称えるだけではあまりにもしのびなく、なさけない思いがタラタラである。きょうの寝起きの文章は、この一考にかぎられる。つらい、夜明けである。

絵になる桜風景、だがしかし

4月3日(水曜日)。気象予報士の予報はズバリ当たり、きのう一日だけの好天だった。夜明けの空は、今にも雨が降り出しそうな曇り空である。ウグイスも出番を挫かれているのであろうか? エールは沙汰止みである。桜の花もきょうは、大空を仰いで(どうするべきか?)と、気迷っているはずである。私は短い文章を書いて、指先を擱くつもりでいる。私の場合は、こんな夜明けでは気分が晴れず、ずる休みである。きのうの私の行動もまた、妻をともなってズバリ予告どおりだった。当住宅地内のS医院への通院を終えると、近くの公園でしばし花見をした。ところが、この予告の行動に加えて二人は、最寄りのバス停からめぐって来たバスに乗った。バスは「大船(鎌倉市)行き」循環バスである。大船の街は、わが普段の買い物の街である。いつもはわが単独の買い物行動だけれど、きのうは妻が付き添った。帰りのバスでは、わが家最寄りの「半増坊バス停」で降りた。この先はわが家へ向かって一部、新興住宅地を開いたおり、大手デベロッパーが勝手にグリーンベルト(緑道)と名付けた狭い一本道がある。名に恥じてどうてことのない、両かたわらに植込みを成し、真ん中をコンクリートで固めた舗道にすぎない。そこには、何本かの里桜が立っている。それを眺める後背には、開発を免れた山に山桜が点在している。足を止めて眺めると、人工と野生のコラボレーション(協演)を成して桜の花が、絵になる風景を醸し出している。すでに桜見物は果たしていたけれど、二人は立ち止まり「絵になる桜風景」を眺めていた。こののちは一本道から外れて、わが家へ回る周回道路へ足を踏み入れた。突然、わが目の前に桜の花びらがコロコロと流れて来た。もちろん、数えきれるものではない。ところが、わが心中にはこんな思いが走った。(桜の花は、咲くかたわらに散るのだ!)。まさしく、「花(桜)のいのちは短りき」。両者、よく譬えられるけれど、必ずしも花(桜)のいのちと人の命は同然ではなく、人の命がはるかに長い。私は、切ない気持ちになり替わり、わが家へ着いた。腕を組む妻は、黙然と歩くことに必死だった。私には、同様の光景を見た妻の気持ちを問う勇気はなかった。あえて問えば妻は、「パパ。人の命も短いわよ」と、言ったかもしれない。短く書くつもりの文章は長くなった。短いのは花、とりわけ桜の花のいのちである。夜明けの曇り空は、雲行きが怪しくなっている。晴れの日も短く、わずかに一日だった。ウグイスの鳴き声を聞かない夜明けは、やはり物足りない。

♪古閑さんへ『庭の花』の感想です♪

フリージアもアーマンディも素晴しく綺麗です☆☆
支柱が倒れたアーマンディには違和感はありませんよーー。

庭の花

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 今日は、天候も良くフリージァの良い香りが庭に漂っていました。アーマンディは先日の大風雨で支柱が倒れてしまい起こしたのですがなかなか元には戻らず一応は写真に撮ったのですがこれからどうなることやら。