頻発する地震にともなう、下種の一考

4月4日(木曜日)。目覚めて起き出してくるままに書く文章は、貧相で何らとりえなく自分自身味気ない。文章は熟考を重ねて書けば、それなりに見栄えするところはある。わかっちゃいるけれど、そうできないのはもとより「身から出た錆」であり、直しようのないわが身の祟りである。こんな心象で書く文章には、ほぼ毎日同じような内容を書き連ねている。ゆえにそのたびに、味気なさはつのるばかりである。こんな文章に一つだけ価値を求めるのは、「継続への挑戦」にすぎない。まさしく、身勝手なふるまいである。「明日はわが身」という成句がある。きのう(4月3日)は、台湾に大きな地震が起きた。国境を限らず、地球上には地震が頻発している。もとより、明日はわが身である。成句の復習には、太身(ふとみ)が細る思いがある。地震が起きるたびにテレビ映像には、凄惨きわまりない光景が映し出される。そのたびに私は、行きたくないあの世へ、地震に遭う前に急いで行きたくなっている。この心境を身勝手というには、なぜか違和感がある。なぜなら、地震への遭遇は地球上に住むかぎり逃れられない宿命である。直近の能登半島地震をはじめ、地震が起きるたびに不可解に思うことが一つある。それは「ボランティア」(奉仕の人)にすがるだけの復旧活動(作業)を見るつらさである。もとより日本列島は、地震にかぎらずいろんな天災(天変地異)まみれである。そうであればボランティアの善意にすがるだけではなく、国が一元的に公的な防災団(機構)を備えておくべきではないだろうか。わが下種の勘繰りをめぐらせば、ボランティア活動(無償)との線引きが難しく、公的機構(有償)の設置には腰が引けているのであろうか。悲惨きわまりない災害現場の映像を見るかぎり、ボランティア活動を褒め称えるだけではあまりにもしのびなく、なさけない思いがタラタラである。きょうの寝起きの文章は、この一考にかぎられる。つらい、夜明けである。