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坂本弘司撮影

体操男子団体戦、「体操金メダル」

7月30日(火曜日)。青く日本晴れの夏の朝が訪れている。きょうは以下のことだけを書いて、それを記録に留めて指休めを決め込んでいる。昨夜は3時過ぎまで、「パリオリンピック」の競技のテレビ観戦ののち、慌てて床に就いた。競技のテレビ観戦のメインは、体操男子団体戦だった。この試合で日本チームは、最終競技の「鉄棒」で中国を逆転し、悲願の金メダルに輝いた。金メダルは日本、銀メダルは中国だった。今の私は心地良い、寝不足に陥っている。

スポーツチャンネル、大盛況

7月29日(月曜日)。雨の無い夜明けが訪れている。ウグイスが鳴いている。今、「パリオリンピック」のフェンシング男子個人戦における、加納選手の金メダルの表彰式を見終えて、二階へ上がってきた。寝不足のため、この先の文章は書けず、沙汰止みを決め込んでいる。きのうのテレビチャンネルには、あちこち交錯してスポーツ番組が組まれていた。浮かぶままに書けばこれらである。大相撲名古屋場所千秋楽。プロ野球、私がテレビ観戦した試合では、阪神タイガース対中日ドラゴンズ戦。高校野球の地区予選決勝戦。アメリカ大リーグにおける大谷選手の出場試合。そして、やはりメイン番組では、「パリオリンピック」における様々な競技の実況放送」。オリンピックでは主に、女子バレーボールにおける、日本対ポーランド戦を観た。だけど、ほかの競技も垣間見た。大相撲では横綱・照ノ富士が優勝した。タイガースは11回裏で、サヨナラ勝ちをした。女子バレーボールはにあっては、日本チームは敗れた。まったく観なかったのは高校野球と、大リーグの試合だった。こんなことを記して、結び文とする。またまた、階下のテレビ桟敷へ駆け込むためである。かたじけなく、心中、詫びている。

「パリ・オリンピック」における、テレビ観戦の心得

7月28日(日曜日)。きょうもまた雨なく、のどかに晴れた夜明けにある。わが夏の朝の礼賛は続いている。アスリート(競技者)とはズバリ、スポーツなどの身体運動などを通して、文字どおり技を競い合う者たちを言う。ゆえに、スポーツマン、スポーツ選手、運動選手など、呼ばれている。しかしながら私の場合、この呼び名のニュアンス(響き)は、長年鍛え上げてきた技の持ち主たいしてだけ、崇めて言いたいところがある。いよいよわが夫婦には、待ちに待っていた「パリ・オリンピック」のテレビ観戦が始まっている。4年ごとに行われる夏季・冬季のオリンピックは、まさしく世界中のアスリートが長年鍛え上げてきた技を競い合う(競技)、華ある世界大会(大祭典)である。だったら、テレビ観戦とはいえ、観なければ大損である。世界の国々から選ばれ晴れて、オリンピックに出てくるアスリートたちには、物心ついて以降長年、技を鍛えてきた人もいよう。あるいはオリンピックを見て、一念発起してみずからの得意技を究めて、ほぼ同意語を用いればすなわち悲願と宿願を果たして、出場が叶った人もいよう。総じてこれらの人たちにたいして、メデイアが「メダル(金銀銅)一辺倒」騒ぎに陥ることには、腹の立つところがある。しかし一方では、この騒ぎがあってこそ、オリンピック自体、盛り上がることも事実である。競技会であればやはり、金銀銅の順位づけはなくてはならないと認めて、栄冠を授けて勝利者を称えなければならないところはあろう。きのうのわが夫婦のテレビ観戦は、ほぼ男子バレーボールの日本対ドイツ戦に終始した。試合はセットカウント2対3で、日本は惜敗した。ところが、15点マッチの第5セットも最後まで点の取り合いの末に、日本は負けたのである。しかし、この試合は予選リーグの一試合ゆえに、この先の相手(アメリカとアルゼンチン)との勝利しだいでは、息の根はまだ残されている。ときたま、柔道、水泳、バスケット、ハンドボールなど、まさしく入り乱れてのテレビ観戦が続いた。私は日本代表選手における、メダル獲得者(勝利者)だけに拍手喝采することは慎み、さらには世界のアスリートの技を堪能したいとも思っている。しかしながらこのことは、絵に描いた餅すなわち、「言うは易く行うは難し」である。なぜなら私は、泰然自若の聖人君子ではなく、メデイアに煽られて見境なく食いつく、ダボハゼみたいなものだからである。「パリ・オリンピック」のテレビ観戦の心得は戸惑うばかりである。

♪HIROKIのタレント日記♪

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《松屋で今度は『ごろごろチキンのロゼクリーム鍋定食』を食べた!!》
7/6に続き松屋の”店舗限定キャンペーンメニュー”『ごろごろチキンのロゼクリーム鍋定食』(税込¥980•59店舗限定•ご飯のサイズは、小盛 並盛 大盛 特盛でも同じ¥980です。今回は大盛でオーダーしました。)が、今週7/23(火)より販売開始!! されましたので、食べに行ってみました。
地元さいたま市では、いつも行きつけの北浦和店だけでしたので、たいへん嬉しく思いました*(^o^)/*
今回はコンロ大丈夫かな? と思いましたが、画像の通り大丈夫でした(大笑)。
具材は、チキン•玉ねぎ•マッシュルームにまろやか味にトマトの酸味とコチュジャンの辛さがアクセントのクリームソースです。
チキンは良いお味だったのですが、玉ねぎ•マッシュルーム•クリームソースは、ナント!! しょっぱかったのです!!
画像3枚目の鍋アップは、水分が足りないように見えませんか?
そこで、松屋には”お茶•お冷”のセルフサービスの機械があって(ファミレスのドリンクバーみたいな)、”お湯”と書かれたボタンがありましたので、コップにお湯を取ってから、鍋に流し込んでみた(←写メを撮るのを忘れてしまいました↓↓)ところ、ナント!! しょっぱくなく♪まろやかな味♪に変わって美味しくいただく事ができましたo(^-^)o
やはり、”店舗限定キャンペーンメニュー”は、スタッフさんは、あまり慣れていないようなところがあり、前回「牛すき焼き鍋定食」の時は、”最初コンロ無し”でしたが、今回の『ごろごろチキンのロゼクリーム鍋定食』は、”追加水の入れ忘れ”だったのではないでしょうか?!
とは言え、最終的には美味しく食べたので、”良かったなあーー”と思った瞬間でした♪♪

☆前田さんの奥様☆は☆美空ひばり大賞☆受賞!!

カラオケBOXではなく、♪スナックカラオケ♪に、おふたりで出かけられるあたりが、”複眼的思考法”の考え方のようで、素晴しいな、と思いました♪♪
☆『悲しい酒』☆は、☆昭和の歌謡界の女王美空ひばりさん☆のミリオンセラーの楽曲ですよね♪☆
そうとう感情を込めて歌わなければなりませんし、セリフの歌詞もあり、☆ひばりさん☆は、涙を流して歌唱されていたように思います。
この曲を、☆前田さんの奥様☆は、特等に上手に歌われて、大沢先生と同じく☆一等賞☆=☆美空ひばり大賞☆受賞と思いました☆
今後も♪スナックカラオケ♪を続けられて、☆前田さん♡奥様☆の♪デュエット♪もよろしいかと思いました♪♪

気分最高の朝

 今朝のひぐらしの記は、それこそ一等賞です。晴れ晴れとした気持ちになりました。前田さんの奥様の前向きな生き方に、感動しました。カラオケは健康にもいいそうですね。奥様は相変わらずの美声をたもっていらっしゃるようですね。私も素晴らしい朝を迎えています。

通院代わりの「昼カラオケ」

7月27日(土曜日)。このところ雨の無い夏の朝が続いている。夏風邪ならぬ、夜明けの夏風は爽やかである。おかげで、気分良く起き出している。ところがネタなく、文章はようやくネタを拾って、書き殴りで様にならない。恥を晒してやっとこさ、戯れの文章を書いている。こんなことでは、継続文の足しにはなりそうにない。きのうは何年かぶりに初見のスナックが営む「昼カラオケ」へ、妻を引率同行した。炎天下、歩いては立ち止まり、また歩いた。大船(鎌倉市)の昼中、かなり長い距離をかなりの時間をかけて、あちこち一見のスナックを探し歩いた。途中には一度、違うスナックのドアを開けるへまをしでかした。目当てにするスナックの名は、妻頼りだった。この日の妻は、カラオケ仲間のご婦人(91歳)との出会いだった。カラオケ仲間と言っても、もう何年もご無沙汰であり、この間に互いに年齢を重ねていた(妻は、9月で81歳)。私たちは数あるスナックの中から、目当ての店を探しあぐねていた。スナックばかりが入っている一棟建てビルの中に、目当てのスナック名を探し当てたのは妻だった。エレベーターで二階へ上がり、昼とはいえ異質の雰囲気を保つ、飲み屋(スナック)の重たいドアを押した。ドアを中から開いた店主(中年の女性経営者)と、妻が言葉を交わし、私たちは明かりの灯る、それでも暗い店内に招じ入れた。妻が出会う人は、すでに店内に居られたのである。このスナックは、その人の馴染みであり、週に何度か通われているという。私は初対面の挨拶を交わすと、妻とご婦人が並ぶところからは離れて、独り隅の方に着座した。カウンターには二人の高齢の男性が座り、ひとりがマイク片手に歌っていた。私は無理して瓶入りのノンアルコール一本を注文した。しばらくするとそれに、手作りのお通し(摘まみ)が添えられて、運ばれてきた(帰りの支払いは1600円)。カウンターの男性たちは、交互に切れ目なく歌われていた。しばらくするとご婦人が歌われた。年齢そちのけに美声である。いつも私の役割は、見知らぬ人の歌お構いなしに、そして上手下手にかかわらず、「手たたき」である。二人の男性、そしてご婦人は馴染みの店らしく、自分の名入りのウイスキーボトルを前に置かれていた。妻は『悲しい酒』など、何曲かを歌った。スナックで聞く妻の歌は、何十年ぶりかもしれない。やはり妻は、特等に歌が上手い。カウンターの男性はその都度、手を叩いて振り返り妻を見遣った。上手の合図のしるしである。2時間ほどいたけれど、私は1曲さえ歌わず、手たたき屋に徹した。それは、歌が下手だからである。一方、妻褒めを許していただければ、これまで私が聴いた素人の歌の中では、やはり妻が一番上手いと、この日も確信したのである。「わたしたち、5時までいるわ」。私は買い物を理由に4時頃店を出た。妻は6時半頃にわが家へ帰って来た。開口一番私は、「やはり、おまえは上手いなあ…」と、言った。妻は満面に喜びの表情を浮かべて、「パパも上手いんだから、歌いなさいよ。歌っていた男性より、パパがはるかに上手じゃないの」。昼間の炎天の夏は、穏やかに和んで夕暮れた。

重宝している三つの人工補助器具

7月26日(金曜日)。薄っすらと夏の朝が明け始めている。開いた窓ガラスから吹き込む風は、早や秋風と言っていいくらい、冷えてさわやかである。夏の朝の快さは、自然界の恵みの上位に位置している。これに反して自然界の脅威と言えば、きのうのテレビニュースは、山形県と秋田県における、ある地域の大雨による洪水被害(災害)状況を映していた。また、テレビ画面の上部には、群馬県では雷、茨城県では竜巻、そして千葉県では、地震にかかわるテロップ流れていた。全国的には、熱中症への警戒警報報道の盛りにある。夏至(6月21日)から一か月余りが過ぎて、見た目また体感的にも夜明けが遅く、夕暮れが早くなっている。季節はすんなりと巡っている。ままならないのは、わが生き様である。起きて、ネタ探しにあぐねて私は、こんなことを浮かべていた。そして、何でも書いていいから書いて、文章の頓挫を免れようと決意する。現在、私は、人工の器官補助器具として、三つ(三か所)さずかっている。すなわち、目にはメガネ、歯には入れ歯、耳には補聴器である。これが一番、それが二番、あれが三番などと、優位差などつけようなく、どれもが一番である。もちろん、どれもがきわめて有効であり、これらが無くては、わが人生の愉しみは無に等しいほどに、減殺(げんさい)されるものばかりである。人間すなわち、他人様(ひとさま)の知恵にさずかり、わが人生は無類の愉しみにあずかっている。だから、ときにはこんなことを書いて、人間の知恵を崇めることは、まんざら馬鹿げたことではないであろう。私の場合、ビールをはじめとするアルコール類は、年じゅう一切無用である。ところが先日、妻のこの言葉に応じて付け足しに、朝日の生ビール缶一本を買って来た。「パパ。エダマメ、食べたいね。茹でた、冷凍の物、買って来てよ」「食べたいなら、買ってくるよ」エダマメとビールは、赤飯とごま塩みたいに、対(つい)をなす飲食物である。好物ではないとはいえビールは、流れるごとく喉を通過した。ところが、前歯の一本が欠けたままにほったらかしにしているせいで、小粒とはいえエダマメは、喉を通すのに往生したのである。すると、このとき感じたのは、入れ歯の効用だった。いよいよきょうあたりから、「パリオリンピック」のテレビ観戦が始まる。だけど、メガネそして補聴器がなくては、ゴキブリのテレビ観戦みたいなもので、暗闇でゴソゴソするばかりである。ネタ無しの文章は自分自身面白味がなく、これでおしまいである。遅出の朝日が輝き始めている。

生きている証しの報告書

7月25日(木曜日)。のどかな夏の夜明けが訪れている。自然界が人間に対し恵む、醍醐味の一つである。夏の夕暮れもこれに加えて、醍醐味の一つである。とりわけ夕立が去った後に、しだいに夕暮れに向かうどきの外気の爽やかさはたまらない。総じて、夕暮れどきの「夕涼み」の爽やかさは、格別の夏の恵みである。しかしながら一方、昼間の夏は、真夏日、猛暑日、さらには熱中症などの言葉を添えられて、人間界に散々嫌われる。また、熱帯夜という夏特有の嫌われる言葉もある。きのうの私は、(熱中症に罹ったかな?)と、思える身体症状に見舞われていた。それは、頭痛がともなう自己診断だった。ところがそれは、幸運にも藪医者もどきの誤診だったようである。なぜなら、起き立ての現在、身体からその症状は消えている。しかし、今な自重するところはある。一つは、きょうの朝の道路の掃除は控えている。一つは、文章書きも控えている。この文章は、文章から離れて「生きている証しの報告書」にすぎない。本当のところは、この文章さえも休むつもりだった。ところが、一つの懸念が後押しをしたのである。それは、「フランス、パリオリンピック」にかかわるものだった。いよいよパリオリンピックは、明日(7月26日)からテレビ観戦が大わらとなる。競技にかかわるリアル(生)の放映は、日本の場合はおおむね夜間から朝にかけてと言う。するとおのずから時間帯は、わが二つの日課すなわち、朝の道路の掃除と文章書きと重なることとなる。掃除はテレビ観戦ののちに延ばしても、一方の文章は沙汰止みになりそうである。これを恐れてきょうは、こんな文章を書いただけである。すなわち、実のない自己都合の文章にすぎない。かたじけなく、詫びるところである。

7月24日(水曜日)。さわやかに晴れた、夏の夜明けが訪れている。ところがきょうの私は、「命」の大事をとって、二つの朝の日課すなわち、道路の掃除そして文章書き共に、意識的に休みを決め込んでいる。「命、燃え尽きる。命、枯れる。命、縮む」。ほか、命にまつわる表現は様々にある。もとより五官、すなわち目、鼻、耳、舌、皮膚のように、わが身体内に「命」という、形ある器官はない。もし仮に、そのような塊(命・器官)があれば、現在のわが命は、見た目キイウイに留まらず、アボガドのごとくしわがれて、黒ずんでゴツゴツしているであろう。こう思うのはきのう一瞬、立ち眩みを感じて命に不安をおぼえたからである。私は「なんだろう?…」と、心中で叫び、その場に夢遊病者のごとく蹲(うずくま)った。瞬間とはいえ、気分が落ち着いても、恐ろしさに震えていた。そして、熱中症かな?と、思った。なぜなら、きのうの夜明けにはたっぷりと時間があったため、先ずは文章書いてそののち、時間をかけて綺麗に掃除をした。しかしこののちは、ほぼ一日じゅう頭部に不快感を宿していたのである。「パパ。もう道路の掃除はしなくてもいいよ。こんなに年なんだから、しちゃダメよ。しなくても、だれも文句は言わないわよ。止めなさいよ」。妻の小言、それは忠告だった。きのうの現象からゆえにきょうは、共に休みを決め込んでいる。だから文章は、この先は書かずに、休んだ理由を書いたにすぎない。ただ、現在は、普段の「命」に復している。形ないものは、手に負えない。私には、それを補う気力がない。朝日はいっそう明るく輝いている。私は、虚しく道路を眺めている。