よみがえる、ふるさと慕情と肉親愛

5月20日(月曜日)。雨の夜明けの空を静かに眺めながら生きている。今や「ひぐらしの記」は、生きている証しを表すだけの文章に成り下がっている。なさけなく、恥ずべき状態である。しかし、恥をかくことは厭わない。なぜなら、恥晒しを恥ずかしいと思えば、もとよりこの世にわが生存はない。私にかぎらず人みな、生きる苦しみに耐え、恥をかきながらこの世に生きている。人々の生き様は、日々メディアを通して伝えられてくる。国内外の情報において、それらを見聞すれば、そう思いたくなる「人の世の業(ごう)」である。嗚呼、起きて、私はこんな愚の骨頂のことを書いている。それでも、机上に頬杖をついて、雨の夜明けを眺めているのは幸運である。なぜならやがて、病床に横臥すればこれしきのことさえできない。頬杖をついて物思いに耽っていると、音なくそぼ降る雨のせいなのか。来し方の様々なことがよみがえり、浮かんで来る。真っ先に浮かんだのは、梅雨入りにかかわるふるさと慕情である。沖縄県はきのう、梅雨入りした。すると、同じ九州圏にあるふるさと・熊本県の梅雨入りも、まもなくであろう。よみがえる梅雨入り前の村人たちの仕事には、麦の刈り取りと収納がある。それが済むと近づく田植えに備えて、苗床作りがある。この後は梅雨、いや雨を頼りにして田植えが始まり、田園風景はしだいに美的水田風景を成してくる。梅雨が鬱陶しいとか、仕事が忙しいとか言っておれない農家の、雨すがりの半ばうれしい好季節である。寝起きの瞼の中に、父と母の姿、姉や兄の面影が浮かんでいる。生きている私がさずかる、ふるさと慕情と肉親愛である。