二〇〇九年の夏、長い間の自民党政権下に於ける政治家の金と汚職、それと閣僚による失言問題で禍いが重り、衆議院議員選挙に於て歴史上最大の大敗を喫し、政権を民主党に明け渡す結果になった。政権を取った民主党がやろうとした政策が、選挙の時に公約したマニフェストにある。子供手当の給付、高速道路の無償化などの目玉となるものの他、それまでの自民党政権下での官僚主導の政治、行政を終わりにし、政治家である大臣が考えた政策を直接行う政治主導の政治を歌い、内閣府の下に国家戦略室を設け、対応したのだが、結局、三年間の政権下で、前述のマニフェストで挙げた政策と共に、政治主導の政治についても、十分な実績を上げられず、政権を降りることになった。
政治主導の政治が思うように実行できず浸透できなかったのは、内閣や政治家が立案した政策の細かい具体的なものを、それまで自民党政権下でやられていた政治行政の事務当局である各省庁の官僚を使って、行政事務として実行させることを忌み嫌ったことである。各省庁の官僚を使おうとせず、大臣、政治家自ら政策をやろうとしたことであった。
政治主導の政治をやるということは、文字通り政治家である政府、内閣が意志決定をし、立案した政策を忠実に行うことだ。その場合、政治家である大臣が、強い指導力を発揮し、大臣命令を強く出し、各省庁の官僚、役人が忠実に実行することだ。さらに、官僚の意向で、政府の立案した政策を修正せずに実行することである。しかし、それは望めなかった。
長い間の自民党政権下で、政府や大臣が自分達が立てた政策を官僚にほぼ丸投げのような形でやらせていたため、大臣の指導した政策について、大臣の言うことを聞かず、官僚のやりやすいように、あるいは、官僚の都合のよいように政策を修正し、大臣の意向を無視して、逆に大臣に指南するような習慣が確立していた。つまり、政府や大臣が立案した政策を実際に行政事務として行うのは、各省庁の役人であり、官僚なのだから、自分達のやりやすいように大臣の政策を彼らの都合で修正して来たのが、官僚主導の政治と呼ばれるものだった。
この自民党政権下で長い間やられて来た官僚主導の政治について民主党は、選挙で自民党の歴史的敗北によって政権を取ると、自民党の風習を打破し、それまでの官僚主導を極端に嫌い、各省庁の役人による政策実行の意向で政策をさせることを止め、政治家が直に行う「政治主導の政治」を行なおうとした。政権を取った民主党にとって、国民の期待を背負っているので、何か新しい事をやらざるを得なかったからである。しかし、政府や大臣等、政治家が作った政策を実行するためには、どうしても細い所は事務当局である各省庁の役人、つまり、官僚が政策を見直し、文書にし、政策の立案を補正修正し、その過程で各省庁の官僚が、政府、大臣、つまり、政治家の政策を行政事務として実務的にやりやすいように内容を作り代えて来たのだ。これが官僚主導の政治の大元である。
さらに、新しい政策をするためには、新たな法案を作らなければならない。その場合、三権分立の組織から言えば、立法府である国会が立法議員つまり政治主導でやり、ある法案を作ろうとすると、各専門の委員会が政府が何を政策として求めているかを知り、あるいは、議会が新たに、それまでなかった法律を作るべく審議し、それを議員主導で法案を作り、各専門の委員会で可決し、さらに議会の本会議で議員全員で衆参各議院として可決するのが本来の立法権の独立した姿であるはずだ。しかし、実際にはそうでない。
アメリカでは、立法、行政、司法の三権分立の通り、立法機能としての議会主導、つまり政治主導の立法活動が確立している。
まず、立法活動でアメリカの議会の議員が、その時々の社会の実情を見て、必要な法律は何か、こういう法律があったらと思うものを検討する。例えば、経済関係の法を作りたければ、商務委員会で審議をし、法案を作るべく作業に入るのだが、その過程で法案の文言を作るが、議会が法律を作ったとしても、行政権である大統領府下の商務省が行政事務として、議会で作った法律を執行できなければ意味はない。そこで、前述の商務省の役人が、議会の議員の立法の趣旨を十分に鑑み、出来るだけ議員の意向通りに、また商務省の行政事務を行いやすいように工夫された法案の条文を作る。役所の人間が条文を作るのだが、あくまで議員の意向に従った議員主導、つまり政治主導の立法なのだ。
一方、行政権である大統領は、法案を提出する事が出来ず、行政権としてこういう法律が欲しいという教書を議会に送る。 アメリカ議会での立法過程で、各省庁の役人が、自分達の都合の良いように法案の文言を作らないのは、三権分立の関係から、立法権を十分尊重し、議員の意向を尊重しようという良心と、議員の多くが大学院レベルで、法律教育をするロースクールを出た法曹資格を持っていて、優秀なる行政権の役人に、法案の文言を検討する過程で、主導権を握られないだけの知的能力を持ち合わせているからだ。つまり、彼らは役人の言いなりにならないのだ。
ところが日本の立法過程では、本来、そうあるべきなのであるが、実際はそうなっていない。立法活動に於て、極端な官僚主導の立法過程なのだ。各省庁の担当部署の役人、つまり官僚が法文を作ったものを、行政府の法のチェック機関、つまり行政府、内閣の法律顧問である内閣法制局が作るべき法律上他の法とのかねあいで、問題がないかについて法案審査を経て、自らも議員である内閣総理大臣が、法案を国会に提出をして可決して成立させている。立法活動の九割近くが、各省庁の役人、官僚が作った法案、つまり政府提出の法案であり、残りの一割が議員が自主的に作った、いわゆる議員法案である。ついでに言うと、地方の議会は、その地域のみに適用する法、条例については、都道府県市町村レベルの条例のほぼ十割が、役人の作った条例案を、地方の首長である知事、市長、町長、村長、特別区の区長が提出するやり方で可決している。このことは、国も地方自治体でも、官僚や地方の役人が作った法案を通すための御用機関に、立法府である国会や地方議会が成り下ってしまっていることを意味する。
そのような、政府下の役人、つまり官僚が草案した法案を議会、国会で可決する背景には、明治二十四年、大日本帝国憲法制定後、天皇を神格化した強い統制の元に、総理大臣以下行政府の下、議会は貴族院と衆議員の二院制であったが、立法も天皇の名の下の強い統制の基で官僚が立案し、それを議会で承認可決するやり方が確立した。
これが戦後は、昭和二十二年に、現行の日本国憲法が制定され、天皇はイギリス国王の「君臨すれども統治せず」の地位に習い、国の象徴たる身分に替わり、名誉ある国権は、これもイギリスに習い、議会が議員の中から総理大臣を選び、半数は議員が大臣に任せる議院内閣制になった。これは、議会である国会が、行政権を議員から選出した総理大臣に内閣を作らせ、そこに信託する形になるので、法律も内閣下の各省庁の官僚が作った法案を、政府、総理大臣が国会に提出する、政府提出の法案が戦前と変らず主流となる。立法府国会は、それを多少修正する形を取って、可決するのが当り前となる。官僚主導の立法の定着である。
この立法過程に於ける官僚主導を強化したのが、戦後の強い政府をめざし五期も総理大臣を勤めた吉田茂である。自らもエリート外務官僚として主要大使のポストを歴任し、政権を取った時も、自ら外務大臣を兼ね、戦後復興には強い官僚中心の政治、行政が必要と考え、官僚を大臣に抜擢、昇格させたり、官僚を辞した国会議員になった者を官房長官や重要大臣に任命した。この任命が、佐藤栄作、池田勇人であり、後に総理大臣になり、吉田茂に確立した官僚内閣、官僚主導の政治、立法が定着する。わずかの期間、自民党の党人脈内閣が出現した後は、池田、佐藤によって、吉田茂の官僚内閣、官僚主導の政治は、「吉田学校」と呼ばれ、受け継がれる。吉田茂に影響を受けた党人脈政治家が田中角栄である。
そして、議会に於いては、官僚出身者の衆参両院議員で自民党内の有力派閥、「宏池会」を作り、官僚出身の大臣を輩出すべく、影響力を絶大なものにした。
このような官僚内閣、官僚主導の政治や立法は、日本の政治に定着し、官僚は東大や京大など、優秀なエリート国家公務員として、政治家である大臣のブレーンとして、政策立案、立法、法案の起草へと権力を牛耳るようになる。
また、官僚主導の政治、行政体制の中で官僚の権力は各方面に広がって行き、強大と言える様に思える程になって行く。
まず、新たな法案を与党の政治家、内閣、各大臣が打ち立てたとする。そうすると、実際に実行するのは役所、各省庁の官僚であるのだが、議員の立案した政策は大まかで、役所の事情、つまり、役所の内部について知らないため、細かい所を詰めた立案が出来ない。つまり、役所が使えるような有効な内容とはならない。そこで、各省庁の担当の課長以上の官僚が、細かい所は役所の都合の良いように、政策内容を大幅に修正してしまう。
この修正は、大義名分があって、一般職の国家公務員は中立でなければならない。いかなる政治活動もしてはならないという服務規定を逆手に取り、政治家である政府、内閣の政策意思は政治性があるので、内閣の意向は、役所の中立性を保つため排除せねばならないことを大義名分として、政府、内閣が作った政策を詳しく役所が使いやすいよう修正し、時には、各省大臣に対し、官僚が大臣を指南するようになる。絶対に政治家である大臣に口を挟ませないようにする。そのように横暴になっていくのだ。そのため、大臣が時として指導力を発揮できないのだ。その根底には、自分達は難関の国家公務員㈵種に合格したエリートであるので、知的能力が下の大臣には従いたくないという意識がある。
それゆえ、大臣がそれまでにない政策をやろうと指導力を発揮しようとして、積極的に命令を出しても無視するか、自分達の主張を政治家より優っている専門的知識で反論し、言いくるめてしまうか、でなければ、あらゆる手段で抵抗をする。自分達の気にくわない大臣がいるとすると、スキャンダルのようなものをマスコミにリークしたりして、大臣を追い落とそうとするような行動に出る。この例は、小泉内閣での田中真紀子大臣の時の外務官僚の抵抗を見れば明らかだった。
また、法案を作るのも官僚主導であることはすでに述べた通りだが、議員立法で政治主導で法案を作ることも可能だが、その場合、各省庁内の事情がわからない議員が自ら法案を作ると、各省内ではまったく使えないと官僚が言うような荒削りの法文になるので、国会には衆参両議院には法制局があり、立法過程にうとい各党の国会議員のために、立法活動をサポートし、法律案の文言、即ち条文を作る事務局がある。その衆参の法制局の事務官は、上級職の国家公務員であって、言わば、「国会の官僚」として存在し、彼らが作った議員立法の法案は、内閣の下の各省庁の官僚に負けないだけの各省庁でも使えるような条文が作れるのだが、たとえ議員立法として法律を可決しても、各省庁の官僚には既得権というのがあって、成立した法律を実際に各省庁で実行、即ち執行するための省令という規則制定権がある。この規則を作る時に、法律を自分達役所の都合の良いように、詳細に書き、当該の官僚にしか理解できないような難解な条文にしてしまう。各省庁の官僚の知的能力を駆使し、たとえ大臣でもわからない難解な規則を作って、大臣の政治的判断を挟ませないようにしてしまう。このようにして、可決した法案を、規則で自分達の都合の良いように作り変え、骨抜きにしてしまうのだ。
このように官僚は、大臣の意向を無視し、自分達の省内の利害、都合の良いように専門知識を悪用し、大臣を支配しているのだ。まさに平安時代の官僚による藤原氏政治である。
この傾向は、国会の弁論活動にも干渉してきた。国権の最高機関である立法府、国会の質疑答弁についても、官僚が主導権を握っている。政権党以下、野党の議員が国会の委員会で、各省庁の大臣に質問する時に、役人である各省庁の官僚が、若手を使って事前にその議員がどのような質問をするかを聞き出し、役所に持ち帰り、自分の所の大臣が国会の委員会で答弁しやすいように、想定問題を作るのである。これは、ある省の内部事情を知らない無知な大臣が、役所に都合の悪い質問を野党議員にされた時、無難に答え、かわすことである。大臣がヘタな答弁をして、各省の官僚が責任を取らされるようになったら大変である。それ故、大臣が支障なくスムーズに、また、無駄なことを言わないよう答えさせるためだ。議員が国会の各委員会で質問する前日まで、「想定問答」作りは行なわれる。夜中の二時、三時まで行なわれ、最終的には財務省の役人がチェックをする。議員の質問が予算の増大に関わるものだった時、大臣にヘタな答弁をされたら大変だからである。ここにも官僚が上位の者である大臣を支配している主客転倒の現象が見られる。
さらに前述の省令、規則制定権を悪用し、事務次官になれなかった局長達を天下り先として、あまり必要でない官庁の外郭団体の特殊法人や社団法人を作って、規則で理事長や理事に据え、さほど働かなくても年間何千万の所得を稼がせている。悪法的規則で天下り先の給料を税金で払わせる、税金の流用である。
また、予算獲得の仕事は、官僚の特権であり、それをどう使うかは、国会で審議されたり、内閣で計画したのではなく、施設建設など官僚の意志決定で自由に使う。国民から預った国民年金や郵便貯金などを好き勝手に使っているのだ。かって、社会保険庁があった時代に、不必要な簡保の宿を建設して売却したが、大損失を出した。
これが官僚機構が、政治、立法、国会を支配する官僚主導の政治、行政、立法の実態である。
民主党は二〇〇九年に政権を取ると、このような吉田茂以来の自民党政権下で長く続いた政府や大臣の言うことを聞かず、反対に官僚が自分達の都合のいいように政府や大臣を支配する官僚主導の政治や立法を極端に忌み嫌い、政治主導の政治、つまり、政治家が官僚を使わず政治家である政府、大臣が直接行う政治をやろうとした。これは、一つには、歴史的な自民党の大敗で、劇的に政権を取った民主党にとって、国民にアピールするためには旧態依然とした官僚主導の政治、行政を打破する必要があったからである。新たに政権を取った民主党が、強い指導力を発揮して、官僚を支配し、政策を行うことは望めなかった。そこで取りあえず政治家が直接行う政治主導の形を取ったのだ。
そこで、国家戦略室を作り、その下に官僚を少し出向させ、政治家が直接政治をやる体制を取ろうとしたが、うまく行かず、他の政策、例えば子供手当などが実行出来なかったこともあり、内閣戦略室は形ばかりのものとなり、政治主導の政治はうまく行かなくなって行った。
江戸幕府、徳川家康は、親兄弟でも敵となって憎しみ合って戦った戦国の世を早く終わらせ和平を取り戻すために、すぐかっとなり激情する日本人を、強靱統制による準軍事態勢である幕藩体制で平和を維持するしかなかった。それゆえ家康は、孔子学の応用、朱子学の林羅山の助言を取り入れ、外側で士農工商の厳然としたカースト、対内的には、親兄弟などの年功序列、親子の忠義などで日常生活を取り締ることで平和維持、つまり安寧を保った。
この江戸幕府の社会統制は、明治維新によって倒されはしたが、孔子学の統制は今も厳然として国民の間に残っている。とりわけ強い統制で行政を執行する国の官僚機構では、先輩後輩の統制は厳しく存在し、そのため官僚による政治立法への統制は、盤石と言える程である。この江戸時代の幕藩体制のまんまの官僚組織では、確立されている官僚主導の政治へ、良識のある後輩が、政治家の言うことを聞こうとして正しいことをしても、先輩に対し逆ったと言って、出世コースからはずされ、閑職に追いやられた上、退職に追い込まれる。その良い例が、天下り先問題に強く批判し、事務次官から退職に追い込まれた元経済産業省の古賀茂明氏の例が好例である。マッカーサーがアメリカの州の憲法をモデルにして作った、自由、平等を唱った日本国憲法を打ち消すように、江戸時代の朱子学の幕藩体制が憲法の上に、古い慣習法として存在する。
このような体制で民主党政権は、政治主導の政治を行ないたくても、それについて官僚主導打破をモットーとして新政策としているので、官僚を使って新たな政策を実行したくても、各省庁の官僚は使えない。さりとて、政府や大臣、議員が政治家として直接政策をやろうとしても、行政事務としてやるには限界がある。行政事務量が多いので無理なのだ。
政治主導と言ってもやはり細かい所は書類を使うので、どうしても事務局は必要なのだ。いくら政治主導の政治と言っても、それを行政としてやるのだから、事務をやる官僚は最小限必要である。民主党政権で内閣の下に国家戦略室は、最小限、各省庁の一部官僚を出向させてはいたが、政治主導の政治をやるには不十分であった。それ故に、政治家主導の政治は遅々として進まなかった。
それではどうすれば良かったかというと、各省庁の官僚とは別の官僚組織を内閣戦略室の中に作ることである。そこに於いて誰を使えば良いかと言うと、大臣の言うことを聞かない各省庁の官僚とは別個に、各都道府県、政令指定都市、市町村の優秀なる一般職の役人を選抜し、内閣戦略室に出向させるのだ。それらの自治体の優秀な人材を、日本全国、津々浦々の色々な自治体から公募、もしくは内閣が抜擢して、民主党政権の内閣戦略室に出向させ、各省庁の官僚組織と並列的に自治体出身者による新官僚組織を作り上げる。これにより政治主導の政治、つまり、政府や大臣の立てた政策を変えずに忠実に行政事務として実行する。そのことによって、財務省、厚生労働省、経済産業省、文部省などに対応する部署として戦略室に置くのだ。
都道府県や市町村レベルの一般職の役人は、国の各省庁の官僚に負けないだけの優秀さは持っている。国の各省庁はたくさんの行政分野につき、機関委任事務と言って、自治体に委任して行政事務が行なわれている。保健医療事務、国民年金事務、建築事務、各自治体の教育委員会の教育事務、行政の委任、福祉行政、森林、緑化管理、旅券の都道府県への委任、建設(道路や橋など)の管理についての委任、などなど。中には国が地方自治体へ委任せずに、国の出先機関である地方局を置いて、国が直接やっているものもある。運輸局は、自動車やバス、鉄道、索道(ケーブルカーやロープウェイなど)、法務局による不動産や権利の登記事務などは例外である。
それ故、機関委任事務で国の行政事務を代わりに行なっていたので、当該行政部門の法律にも精通しているのだから、内閣戦略室の出向で、各省庁の担当に代わって行政事務を執行出来るし、また新たな法案作りにも事務当局として十分、機能できる。
また、民間会社の現職の優秀な事務系の社員や現職でない退職した優秀な適任者を戦略室に出向、任命してもよい。例えば、商社、建設業、旅行業(観光政策など)、農協(農政など)、水産会社など、その時々の政策に合わせて、それらの出身の適任者を選ぶ。
その他に、ミクロ経済のスペシャリストとして、これらの業界新聞の記者を任命するとなお良い。
具体的に自治体からの出向例を示してみる。ただし、都道府県や市町村の名前は、実際にそこから選べというのではなく、あくまでも仮に事例として述べたものである。
例えば、民主党政権が経済政策をやろうとする。そうするために、経済産業省と同じような内閣の政策を実行する事務当局を内閣戦略室の中に作ったとする。すると、次のような布陣となる。財務担当者を東京都の担当者を、経済政策担当者を地域の経済政策について政令指定都市の横浜市からや大阪市の商工課の担当者を、そして経済計画の担当者を愛知県庁から、租税課の担当者を新潟県や埼玉県熊谷市役所の担当者を、国税の担当者を現役の国税庁の税務官か公認会計士、税理士から、雇用計画などは国に近い千葉県庁や北海道庁、京都府庁、福岡県庁、大阪府庁の担当を起用すること。また地域の経済振興には埼玉県の行田市とか東京都の五日市市、新潟県山越村からという風に、内閣戦略室の政治主導をする新官僚として政府の任命とするか公募したりする。
もし福祉政策をするなら、医療についてなら、県立病院や村営病院、町営病院などの医者や病院事務長、ケースワーカー、医療担当者には都道府県レベルから群馬県庁、静岡県庁、福井県庁、兵庫県庁、そして健康保健については、神奈川県中井町、静岡県浜松市、その他山村の村役場から、老人福祉には長野県長野市、栃木県の黒磯市や宇都宮市、精神保健については県庁、例えば福島県庁、北海道庁、鳥取県庁、そして千葉県千葉市役所、神奈川県川崎市、福井県小浜市などの事務官やケースワーカー、また、町や山村の役場の職員などなど。そして介護には、県や市町村ばかりでなく、民間の介護会社、ツクイとかニチイの幹部社員、そして、国民年金等社会保険関係の部署には仙台市、札幌市、青森市、それに県庁から秋田県庁などの職員を当てる。また民間からは、社会保険労務士、行政書士、また海に関して特殊ではあるが海事代理士などを内閣の戦略室に出向させるのも良い。
以上が経済と福祉政策を民主党が新たに政治主導でやろうとした場合、官僚が言うことを聞かず官僚主導になりやすい時に、前記のような地方自治体からの出向者や民間会社から出向をさせればよい。その他にも、文教政策などそれまでになかった新たな政策をやろうとし、かつ官僚と対立し、官僚主導しか望めない分野については、内閣戦略室に自治体や民間会社から出向してもらい、内閣の戦略室に各省庁のとは別の官僚組織を作れば良い。
新しい政策で政治主導でやるのに、運輸行政については都道府県、市町村レベルの運輸の専門家は限られた分野にしかいないので、なかなか国土交通省に対抗する官僚組織を作りにくい。鉄道や船舶を使う海運については、機関委任事務として自治体に委ねず、国が直接地方局を置き、行政をやっているからである。それでも鉄道については、地下鉄を運行している都道府県や政令都市がある。例えば、東京都や大阪府、札幌市、横浜市など、このような政令指定都市からの出向が望ましいし、近畿日本鉄道(近鉄)、JR東海やJR西日本、東日本、阪急、阪神ホールディングス、京浜急行、東急電鉄、小田急電鉄などの大鉄道会社から人を出向させたりする。海運などは大きな船会社、山下汽船、日本郵船などからの出向を求める。バスについては、東京都や川崎市、大阪市、そして村、例えば埼玉県の両神村からの出向なども良いと思う。また、政治政策で宇宙開発を挙げるなら、宇宙開発事業団や東大の宇宙航空研究所などから内閣戦略室に出向してもらうのがよい。それで内閣府の下に新たな官僚組織を作るのが理想である。
このようにして、新たな政策を民主党政権の時にやろうとしたなら多くの行政事務量になるはずである。従って、色々なもっと多くの自治体から行政法律職の事務系の職員を内閣国家戦略室に出向させなければならなかった。
前述のように、地方自治体の職員を多く出向させることが出来るのは、一つには国から機関委任事務などに従事していて、当該省庁がやる事務を行なえる上、国家公務員に負けないだけの優秀さを持っているからである。
新しい政策などをやる時に限って、官僚主導の政治になりやすい分野のみ、地方出身の役人や民間人による新官僚を内閣国家戦略室に作れば良いわけであって、すべての省庁に対応した新官僚を作るわけではない。
政府が、あまり政治性がなく、また新たに政策をやろうとするものでない行政分野については、従来通りに官僚を使っても差しつかえない。法務行政、医療行政、建設行政などは、あまり新しいスローガンを挙げて政府がよほど改革などをする分野でない時は、従来通りの行政変更がない限り、これまでのように行政を各省庁の官僚に任せておけば良い。
内閣の国家戦略室の下に政治主導の政治をやりたくても、地方公務員にできない行政分野がある。外交と防衛である。
外交については、本省の事務官の他に、大使、公使、そして民間の交流や通商を使う総領事や領事の職を外務官僚が独占しているので、多くの自治体から外交については内閣国家戦略室に出向させられない。外交の経験が地方公務員には適任者がいないからだ。しかし、内閣が政治主導の外交をしたいなら、外務省OBや外交評論家国際法のスペシャリストである学者などで最小限構成すればよい。そして、地方出身の行政事務の役人として外交文書の作成に携わせるのもよい。しかし、よほど内閣が外務改革を唱えない限り、従来の外務官僚を使えば良いと思う。
二〇〇一年の小泉内閣の田中真紀子外務大臣の時、田中大臣が強い指導力を発揮し、政治主導の政治を民主党の前に試みたが、古い体質の外務省の外務事官以下官僚が、大臣の政治介入はままならぬとして田中真紀子大臣の政治方針をまったく無視して対立し、大臣が辞めさせられる事態になった。その時に、外務官僚の腐敗した体質も露呈し、外務省の改革改善が行なわれたので、それ以後は多少は外務省もまともになった。しかし、まだ外務官僚の体質は残っているが、従来通り外務官僚を使うしかない。最小限、内閣の国家戦略室に出向させても良い。代わる人間がいないので外交関係は外務官僚を使うしかない。政治主導を発揮するとしたら、大使や公使の職に民間人をもっとたくさん起用すべきである。民主党政権になってから、中国大使に商社マン出身の人を任命したが、わずか三年ぐらいで従来の外務省の人間に交代した。
大使、公使、そして領事の職については、外務職員の年功序列でやっていたので、その職を奪われることに抵抗はものすごい。外務官僚がそれらの職の独占をしていたのだが、大使、公使などの職は、相手国に於いて、日本政府の代表なので、これこそ政府の政治方針を外交に反映すべき場所である。そしてこれこそが内閣や外務大臣に大使、公使、領事に対する任命権、人事権があるのだから、政治主導でもっと多くの民間人の適任者を任命し、それを定着すべきである。
次に防衛の行政分野にも集団的自衛権や自衛隊の改革など政治主導で行うべきものがあるが、どちらかと言うと国会に於いて、立法活動で防衛関係の是非を問う形式であり、従来から政府、内閣や大臣の政治主導の政治方針と防衛省の官僚や制服を着た自衛隊幹部との対立は見られなかった。やはり、防衛という軍事的に緊張した状態に対応すべきものだからである。
従って、防衛問題を政治主導でやると言って、内閣の国家戦略室に防衛省以外の人間を出向させて防衛省の官僚と別個の官僚を作ろうとしても、せいぜい軍事評論家ぐらいしか適任者はいない。それに地方自治には防衛に詳しい役人は皆無である。防衛は、地方自治体には委ねられていないからだ。それ故、防衛は総理大臣を最高指揮官として命令系統にあるので、従来通り、その統制でやれば良い。
このような自治体出身者や場所によっては民間人を国家戦略室の事務官に起用するメリットはなにかと言えば、民主党と言わず時の政権が計画し実行しようとした政策、政治を、自治体出身の国家戦略室の新官僚は、事務当局として忠実に実行してくれるということだ。これまでの各省庁の官僚のように、自分達の都合の良いように官僚の専門知識に物を言わせ、大臣を言いくるめ、政府や大臣がやろうとした政策を自分達の都合の良いように変えてしまう官僚主導を終わらせる絶好の機会である。
そして、政策に必要な新たな法案を作るにしても、国会の議員の意向と法律を使う側の役所の間で協議して作る。前に述べたようなアメリカ議会での立法活動と同じ体制で確立できる。アメリカの各省庁と議員の協議によって法案を立法化するのだ。
地方自治体の公務員は、国の機関委任事務で各自治体の役所で各省庁の官僚と同じように、行政事務として国の法を執行していたので、新たな法案作りについても出向した国家戦略室に於いて法律の文書を作る作業については、各省庁の官僚に負けないだけの技能はある。
国家戦略室に出向した種々の自治体出身の職員達は、時の政権が必要な政策をやろうとして集められたので、各省庁の官僚のように江戸時代の徳川家康が敷いた厳然とした年功序列の基準に先輩後輩のカーストで統制され、先輩のやった行政方針は絶対で、先輩に対して良識のある正しい意見を言えば、逆らう、口答えすると言われる超固定的な官僚組織と違い、年功序列などがまったくない、平等で民主的な、また流動的な新官僚組織である。それだけに、政府がやろうとしている政策を忠実に行政事務として行なえる。丁度、民主党が政権を取った時、自民党が国会に於いての議員の能力に関係なく、議員当選年数のみの年功序列で大臣ポストを割り振っていたのを打ち破り、老若男女、年齢に関係なく、能力のある者を大臣ポストにつけたのが最大の特徴、功績であったが、それは民主党の議員が様々な階層、職種から構成されていたからだ。
同じように多くの自治体の出向者で構成する新官僚組織も年功序列の旧習打破である。本当の意味の民主的な政治や行政事務の体制である。
この他に、国家戦略室の中に自治体の出向者で固める新官僚組織を作ることは、地方公務員の国政参加、国の行政事務参加という大きな民主的な門戸を国の政府によって開かせることになる。これまで国会議員には、国の官僚出身者はいたが、都道府県、市町村レベルの行政職出身者は皆無と言っていいほど存在しない。そのような意味で、地方の国の行政参加は、下克上というほどでもないが地方の声を国に反映させるという意味で、超民主的で画期的なものだ。
戦後日本は、マッカーサーの軍政下、より住民に密着したアメリカの各州の憲法を真似て、日本国憲法が作られたが、従来の国により地方を完全支配する強い中央集権国家であったのを改め、独立性のある地方自治が盛り込まれたが、未だ国の地方自治体への支配は根強く厳然とある。
地方自治体の税収入は、三割税収と言って、その自治体が地方税として住民に税を課して自主収入を上げられるのは、わずか三割である。残りの七割は、国から税金補助で地方財政は賄なわれている。
それは国が直接地方局を置いてやる許認可行政、例えば法務局や運輸局など以外は、本来、国がやるべき行政事務を、地方自治体に機関委任事務としてやってもらっている。それゆえ、その事務を執行するために、国が地方自治体に税金補助をしている。それが七割にも達する。そのため、地方自治体の役人は、国の役人の意向に従わざるを得ない。例えば、建前上地方自治があるので、各地方自治体は出来る限りその自治体に住む住民に合わせた行政をすべく自主的に意志決定をするはずであるが、税金を補助してもらっている関係上、国が行政方針を各地方自治体に通達して来た場合、通達には強制力がないにも拘わらず、従わざるを得ない。
人事的にも国の地方自治体への支配は、未だ戦前のような主従の関係が続いている。戦前は、国の公務員を官吏と言い、地方の役人は公吏と言われ、国と地方の関係は強い上下関係が存在していた。そして、県知事については、旧内務省の上級職の国の官吏、つまり、官僚が国の命令で各県知事の職に就いていた。即ち、戦前は県知事は選挙で住民が選ぶ民選知事ではなく、官選知事であったのだ。この関係は、戦後民主化された地方自治体の体制でも続いている。旧内務省で、少し前の自治省、現在の総務省の高級官僚が県の副知事に出向しているし、旧内務省の警察庁の官僚が、市の助役に出向したりしている。また、総務省以外の官僚が、市や町の課長以上のポストに出向したりしている。
このような未だ続いている行政事務の国による地方自治体の支配に対して、国家戦略室に多くの自治体の優秀な人材を集めて、政治主導の政治をやるための新官僚組織を各省庁の官僚と並列的に作ることは、前記の国の地方自治への支配を解消させ、下克上的に地方自治体の役人を国の行政事務に参与させる民主的なもので、大変意義がある。
民主党は政権下でこの方法を思いつかなかったので実際にはやらなかったが、もし実現していれば、文字通り本当の意味で「民主党」であったのだ。
内閣戦略室に地方自治体の公務員で作る新官僚組織を作ることは、長い間各省庁の官僚が大臣の行政方針、意向を無視し、自分達の都合の良いようにやりたい放題やっていた官僚主導の政治を終わらせ、官僚支配を骨抜きにするためには大変良い方法だ。政府の政策、方針を忠実に政治主導でやるため、国家戦略室に出向した地方自治体の役人に、その行政事務をやらせれば、従来通りに各省庁の官僚に行政事務を担当させない事であり、政府から無視されることになるので、官僚達は動揺することになろう。そして、従来のように官僚が政府や大臣の意向を無視して来たことを改め、政府の意向を聞くようになることだって将来あり得るのだ。
ただ、国家戦略室の地方自治体の役人と、各省庁の役人との二重行政ということも懸念しなければならない。かつて、アメリカのカーター政権の時に、中国と国交回復のプロセスで、大統領府の特別補佐官室と国務省との間で、二重外交となったが、このようなケースも想定しておかねばならない。また、財務省が予算配分で抵抗し、国家戦略室の地方自治体の役人による行政事務に対し、十分な財源を与えないかもしれないが、総理大臣の指導力で解決しなければならない。
一度、民主党が内閣の国家戦略室の下に地方自治体の役人で作る新官僚組織を作れば、後に自民党が政権を選挙に勝って奪回しても、そのような組織は定着せざるを得なかったと思われる。もし、民主党がやった地方出身の公務員で構成される内閣国家戦略室を、自民党が政権を取った後、以前のような政策を行うのに、以前のような固定的な各省庁の官僚を使い、旧態依然とした官僚依存の官僚主導の政治に戻したとすれば、再び腐敗した政治、政官癒着の政治となり、国民の批判を浴び、支持を得られることがなくなるので、民主党がやったような内閣の下に地方自治体出身者で構成した新官僚組織を引き継がざるを得なくなる。ただ、その場合、民主党の作った新官僚組織をそっくり使ってもよいが、流動的に自民党の政策に合った、違う自治体出身者を選んで、新官僚組織を作るだろう。この意味で、民主党が自治体出身者の新官僚組織をやって、日本に定着すべきであった。
参考文献
前野徴「戦後歴史の真実」扶桑社文庫 二〇〇二年
宮本政於「お役所の掟」講談社 一九九三年
渡辺正次郎「田中真紀子総理で日本はこうなる」日本文芸社 二〇〇一年
日本経済新聞社編「官僚」日本経済新聞社 一九九四年