雨、雑感

8月7日(月曜日)。眼下の道路にはきのう降った雨の跡かたがまだあるものの、すっきりと晴れた「夏の朝」の夜明けが訪れている。パソコンを起ち上げるとすぐに、インターネットの記事を閲覧して、雨の降り方をおさらいした。いや多くは、いまさらながらに新たな学びに出合った。すると、雨の降り方やその表現は箆棒にあり、数えかつ覚えきれるものではないという。それらの中から、143通りの降り方が説明付きで、記されていた。ここにそれらを転記すること自体、容易ではなくだからそんなバカなことはしない。寝起きに浮かんでいた事柄をあえて書けば、こんなものである。ほぼ同義語だが並べれば、驟雨、俄雨、日照り雨、狐の嫁入り、心情的には日照り続きの中にあって突然降った、喜雨、慈雨、恵みの雨と言えるものだった。これらのほかにもいくつかの降り方は浮かんだけれど、ここでは省略せざるを得ない。うれしさにおいては、思いがけない夕立とも言えるけれど、入道雲や雷はともなわず、晴れた大空の下、滂沱のごとく「降っては止み、止んではまた降った」を繰り返した。日照り続きのせいで、萎えていたわが心身は悦び、一気に生気が戻った。ところが、わが心身に輪をかけて、見渡す限りの草木は、溢れるほどの水分を帯びて、艶々に生気を露わにした。降ったり、止んだりの繰り返しで、私は網戸と窓ガラスの開け閉めに部屋の中を小走りした。けれど、きのうの昼間は、雨に出合い痛快だった。昼間と限定したことには、わが夫婦は朝の八時十五分、原爆が投下された広島市の「平和の鐘」の合図の下、一分間の黙祷を捧げて、涙したからである。NHK番組はまもなく、夏の高校野球の開会式を映じた。なんだかなあ…、ちぐはぐな一日だった。だからきのうは、自然界の営みを含めて、人生の縮図を見ているような悲喜交々の一日だった。きょうには青天の霹靂は望まない、穏やかで平凡な一日を願っている。幸先よく大空は青く染めて、風雨パタリと止んだ、のどかな朝ぼらけが訪れている。