俺も、内田村に生まれ育った。

相良山雪景色2006.01.JPG

昭和22年、内田小学校に入学し、昭和31年、内田中学校を卒業した我々には・・♪永久に動かぬ相良山、水の瀬清き内田川・・と、唄われた・・「相良山と内田川」・・は、心の源風景である。しかし、今の市誌には、相良山のことも、内田川のことも、書いてない。
 矢谷邑、相良邑、上内田邑、山内邑から―内田村に・・内田村から―菊鹿村に・・菊鹿村から―山鹿市に・・田村は変わっていった。
 そして、そこに暮らした里人たちは、山や川はもちろんのこと、道端の石ころや、崖上の古木にさえも、深い想いを刻み込んでいった。
 内田村から菊鹿村に変わった時・・♪「永久に動かぬ相良山、水の瀬清き内田川」の・・「相良山と内田川」・・・は、何の感情も抱かない、よそ者たちの手によって、――内田川は・・上内田川と、名を変えられ―相良山は・・村のシンボルから、外されてしまった。
 菊鹿町から、山鹿市に変わってからは・・内田川沿いを喘ぎ喘ぎ上って行った路線バスを廃止し・・祖先から伝えられてきた祭事を、彼方の町の祭りでしかなかった灯籠踊り一色の旧市一極の市政を取り、里村を過疎化させるとともに、山川草木を愛しむ里人の心を顧みようとしなくなった。
 時代の流は誰にも止めることはできない。だからと言って―ツンバリ棒をした木造校舎から、聴こえてきた足踏みオルガンの音―ゴロゴロ岩を飛び越えて、ゲギューや、シィツキを釣った小川―まだ、見ぬ未来を空想しながら、仰いだ山々を想う、我々の心まで打ち砕いてしまうことはあるまい。