3月27日(月曜日)。自然界にあって、頃は桜の花の季節である。咲けば散る。いや、散らされる。桜の花にたいしまるで感情があるごとく、いじわる根性を丸出しにしているのは「雨・風・嵐」である。このところの桜の花にたいする雨・風・嵐の妬みと悪態ぶりには、見て反吐(へど)が出るほどである。おのずから私は、雨・風・嵐にたいする恨みつらみが絶えない。確かに、人間は感情の動物である。その証しに人間は、生まれて死ぬまで、ほとばし出る好悪(こうお)の感情に絡みつかれている。「生と死」は尊厳をともなって、「出会いと別れ」の両極にある。人間の感情にあって、命の生誕にはおおむね喜悦が付き添い、一方命の終焉には必ず悲嘆が付き纏う。命の終焉にあっては、大往生という言葉がある。ところが私には、この言葉は切なさと悲しさを隠す、まやかしに思えている。3月はきょうを含めて、残り五日の最終週を迎えている。3月は、多くの別れ(儀式)を織りなす月である。小・中・高・大の学び舎は、ほぼ卒業式を終えている。この頃では、卒園式も営まれる。実業界すなわち社会人にあっても、3月には多くの別れ(儀式)がある。それらは余儀ない定年をはじめとする退職、人事異動や職場替えなどに見られるもの、ほかにも様々な別れがある。別れには事の大小にかかわらず、去る人そして見送る人のそれぞれに、悲喜交々の感涙が溢れ出る。いや、別れには、ほぼ切なさと悲しさだけが付き纏う。けれどそのぶん、感情の動物(人間)に最も似合いの美的情景を映し出す。切なさと悲しさを和らげてくれるのは、新たな出会いである。出会いには楽しみが付き纏う。これまた、美的情景である。出会い(儀式)の多くは、月を替えて4月に訪れる。3月と4月は、おおむね別れと出会いの月である。もはや社会人崩れの私の場合は、人様の別れと出会いの情景を垣間見て、涙するばかりである。垣間見る情景の多くは、昔からこんにちにいたるまで、駅のプラットホームである。感情の動物、やはり私は、人間に生まれて幸福だったのであろう。別れと出会いに付き纏う人間の感情は、確かに悲喜交々である。しかしながらこの感情あってこそ、艱難辛苦の人生行路は、美しく彩られもする。幸いなるかな! 夜明けの空の色は、このところ雨模様を断って、ちょっとだけ明るんでいる。しかしなお、「雨・風・嵐」怪しい雨空である。