清々しい、嘆き文

1月28日(土曜日)。待っていた春が、駆け足で近づいてきた。降雪予報で驚かされたけれど、雪降りなく過ぎた。降ったとしてもこの時期の雪は、もはや冬を閉めて、春の訪れを告げる、早鐘みたいなものである。冬はもう、後ずさりはしなく、三寒四温の季節用語をたずさえて、この先一歩一歩、確かな春へと近づいて行く。ゆえに寒気を嘆くのも、いましばらくである。生きているかぎり、日々嘆くことは、ほかに数多(あまた)ある。起き立ての私は、わが身の甲斐性無しを恥じながら、亡き親(父母)の面影を浮かべて、懐かしく偲んでいる。ひとことで言えばそれは、わが不甲斐なさを省みて、親の偉さとありがたみへの追慕である。子どもの頃の私は、熊本県北部地域の山あいの片田舎にあって、子ども心特有に天真爛漫に生きていた。もちろん、生きることの困難さなど、微塵(みじん)も感じていなかった。ところが現在の私は、一女の親になり、自分自身、日々生きることの困難さを露わにしている。親は三段百姓を兼ねて水車を回し、心許ない生業(なりわい)に明け暮れていた。ところが驚くべきことには、子沢山(14人)の親業をしっかりと為していた。私は、親が生きることに苦しんだり、嘆いたりしている様子を見たことなど、ただの一度さえなかった。本来、親とはこうあるべきはずなのに不断の私は、日々生きることに四苦八苦しながら、狼狽(うろた)えかつ嘆いている。挙句、文章を書けば愚痴こぼしばかりである。なさけなくも私は、親の遺伝子を断ち、遺徳を汚(けが)している。親と子、わが親と私自身、こうも違うのかと、やはり嘆いている。しかしながら、きょうだけは親を偲んで、清々しい嘆きである。こんな文章、投稿ボタンを押すか、押すまいかと、迷っている。わが脳髄にはバカの言葉が付く、早やてまわしの春が来ているようである。春が近づいて、寒気は緩んでいる。