「謝意」文

1月10日(火曜日)。元旦、三が日、七草、ほか「初」という冠を付けた歳時(記)は、日ごとに過ぎている。加えて、きのうの「成人の日」(9日・月曜日、休祭日)へ連なる三連休も過ぎた。現在は、起き立ての夜明け前にある。きょうあたりから実質、働く人も、学び舎で学ぶ人も、新年の本格稼働に勤しむことになるであろう。これらの人の例外に属する人は、自営業を生業にする人、世のため、人のため、そして自分のために社会貢献や公務に就く人たちであろう。さらにはこれらの人たちを超えて、休むことなく勉学のフル回転を強いられているのは、様々なレベルの受験生である。職業を持たない私の場合は、もはや働くという言葉自体が死語に近いところにある。実際には死語とは言いたくないから、縁遠いと換言するところである。なぜなら、わが日常生活に負荷されている仕事、すなわち妻を支える主婦業、分別ごみ出し、当住宅地の周回道路をなすわが家周りの掃除はすでにしている。さて、「ひぐらしの記」は、旧年の年の瀬および暮れから明けてきょうまで、休むことなく書き続けている。ところが、世の中の人たちが本格稼働に就くきょうは、書くことに疲れていて、休みたい思いで起き出している。確かに、休むことなく書き続けてきた。しかし、文章書きは仕事ではないので、書き続けたことを自惚れることはできない。換言すれば、仕事を持たない老人の行き場のない暇つぶしにすぎない。ところが、この間において秘かにちょっぴり自惚れているのは、心して愚痴こぼしの文章を遠ざけ得たことである。しかしこれも、もはや消費期限が切れて、きょうあたりからぶり返している。私の場合は、もとより愚痴こぼしの文章を避ければ、たちまち頓挫の憂き目を見る。言うなれば様々な愚痴こぼしは、わが文章立ての骨格を成すものである。それでも愚痴まみれの文章は、自分自身はもとより厚意にさずかるご常連の人たちの気分をも損ねることとなる。自分自身の気分を損ねるのは、自業自得ゆえに仕方がない。しかしながら、親愛なるご常連の人たちの気分を損ねるのは、わが大きな罪作りである。対面なく文章で詫びて済むものではないけれど、衷心より謝意を示すものである。「謝意」とは、きわめて都合の良い言葉である。知りすぎている言葉だけれど、習性にしたがって電子辞書を開いた。【謝意】①感謝の気持ち②謝罪の心。お詫びの気持ち。すなわち私は、心してご常連の人たちに対し、謝意をいだいている。とりわけ現在の謝意には意図して、罪償いと罪滅ぼしのわが意を託している。いやこの先も、厚意にさずかるご常連の人たちに対しは、一寸たりとも謝意を忘却することはない。このことは自戒というより信念である。世の中の人たちの本格稼働開始にあたり、私はこのことをわが胸に銘じて、愚痴こぼし文章の許しを得たい思いである。書き疲れている私は、身勝手にこのことを記して、指先の動きを畳むものである。やはり最後は、愚痴こぼしで閉めることになる。幸いなるかな! 胃カメラは腫瘍や芥子粒ほどの傷も探しきれなかった。けれど、旧年からの胃部不快感はなお続いている。庭中へ飛んで来る山のメジロを真似て、薬剤代わりに椿の花びらの甘い蜜を舐めたら、案外治るかもしれない。子どもの頃のわが母は、嗜好というより薬剤代わりに何かというと、お顔見知りの人が育んだ蜂蜜を舐めさせてくれた。すると、ケロッとではないけれど、なんだか効いていた。書き殴りの駄文とはいえ、私には手に負えないものである。だから、おしまい。夜明けまでの制限時間内に収まった、謝意文である。