成人の日

きょうは「成人の日」(1月9日・月曜日、休祭日)。遠い日の思い出というより、空(から)ごとの夢まぼろしになりかけている。確かに、私のみならず人は、華ある成人(式)を迎えても、年月を過ぎれば必定、老い耄れの姿をさらけ出す。このことは人間のみならず、生きとし生きるものの宿命(定め)である。だから、新たな成人(式)を寿(ことほ)ぐことすれ、むやみにやっかむことなく、いくらかのやせ我慢でことたりる。そうは言ったものの正直なところ私は、かなりやっかんでいる。これは82年生きても、年の功を重ねることなく過ぎた、わが虚しさの証しなのかもしれない。顧みてやはり若さは、それだけで人生行路における、無償で得られる宝物である。しかしながら、その宝物を無駄にすると、年月過ぎてしっぺ返しをこうむり、人生の晩年においては後悔まみれとなる。このことはわが身を省みて諭(さと)す、切ない老婆心である。老婆心はあえて、老爺心に置き換えることのない、「婆・爺」の共通語である。さて、何度も繰り返し書いているけれど、随筆集と銘打っている「ひぐらしの記」は、すっかり私日記スタイルに成り下がっている。その証しにはしっかりと態勢をととのえて書くことなく、私は起き立ての心象(風景)のままに書いている。いや実際には、起き立てにふと心中に浮かんでいることをネタに書いている。挙句、書き殴りや、ときには走り書きを強いられている。このことは、後悔というより反省である。ところがいくら反省を重ねても、いまだいっこうに正すことができずじまいである。六十(歳)の手習いにすぎない私は、もとより文章というよりいたずら書きの作文にさえ手を焼いている。こんな嘆きを起き立てにこうむるのだからわが一日の始動は、おのずから泣きべそまじりとなる。そのうえ、文脈の乱れや誤字脱字など、すなわち失策をしでかせば一日じゅう暗い気持ちになる。そのたびに、「ひぐらしの記」の継続の可否や是非に決断を迫られて、わが心は大揺れとなる。私にはもう「成人(式)の日」は来ない。そうであるなら、「老人や老齢の日」をどう費やすか? と、私は日々苦心や迷い言を重ねている。文章に手古摺るのは、もちろん序の口であり、生きるための難題はほかに箆棒(べらぼう)にある。時節柄、起き立ての寒さが身に沁みる。老齢の身を生きる苦しさは、ずいとわが身に沁み込んでいる。