私は茶の間のソファに背凭れていた。恐れていた降雪予報は外れた。まるで、予報の外れを償い詫びるかのように、早春の陽光が窓ガラスを通し見ている視界へ、限りなくキラキラふりそそぐ。もちろん、自然界が詫びることはない。予報を外したことで詫びるとしたら、気象庁とか気象予報士の名を着る人間である。しかしながらこれらの人とて、番外編の好天、煌めく陽光にありつけて、詫びることはない。山から緑(あお)く艶々に光る初々しい姿のメジロが番(つがい)で、庭中のツバキの花びらへ飛んで来た。心許なく小枝や葉っぱを揺らし、飛び飛びに仲良く分け合って、仰向けに蜜を吸い始めた。いつも先導するシジュウカラは見えない。私は、たまゆらの幸福に酔い痺れていた。人生の晩年を生きるわが身は、やがて斃(たお)れる。きのう(1月7日・土曜日)の昼間の寸描と、そのおりのわが心象風景である。きょう(1月8日・日曜日)の私は、わざといつもとは違う書き出しをした。それは起き立てのわが心中に、「玉響(たまゆら)」という、言葉が浮かんでいたせいである。普段はあまり用いないけれど、文字どおり心に響きの良い言葉である。すると、語彙の生涯学習を掲げる私は、学童の頃の「綴り方教室」に倣って、「たまゆら」を用いて、一文を綴ってみたくなったのである。言うなれば生涯学習にちなむ、言葉の復習(おさらい)である。私は「たまゆら」を見出し語にして、手元の電子辞書を開いた。【玉響(たまゆら)】①(万葉集の「玉響(たまかぎる)」を玉が触れ合ってかすかに音を立てる意としてタマユラニと訓じた)ほんのしばらくの間。一瞬。一説に、かすか。方丈記「いづれの所を占めて、いかなるわざをしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらも心を休むべき」。「たまゆらの命」。②草などに露の置くさま。きのうの私は、妻が予約済の髪カットへ、大船(鎌倉市)の街中にある美容院、いや小汚いビル内の一室へ引率同行をした。降雪予報の外れに変わる、思いがけない早春の陽光は、ふたりには万々歳だった。忝(かたじけな)い一文をしたためて、夜明けを待つことになる。きのうの陽光が温めたパソコン部屋は、暖を引きずりこころもち寒気が緩んでいる。自然界も、気象プロの人間も、予報の外れを詫びることはない。私にはありがたさの極みにある。