たった一つだけのユズの実に懸けた「ゲン担ぎ」

12月23日(金曜日)、起き立てにあって寒気が緩んでいる。この時季にあっては、自然界からもたらされる特等の恩恵である。きのうの「冬至」(12月22日・木曜日)にあって私は、湯船にたった一つだけ、武骨なユズの実を浮かべた。労わり、慈しむかのように私は、ユズの実を鼻先に引き寄せた。馥郁とする柚香は、しばしわが心を和ませた。たった一つだけとは、われながらケチ臭いと思う。農家出身の私には切ない言葉だけれど、それはユズの実が「不作」だったせいである。台風で倒れた柚子の木は、私がいくらか起こした。しかし、それ以来今なお、傾いたままである。倒れたおりには枯れることを懸念し、本幹を残して枝葉の多くを切り落した。ようよう生きながらえてくれている柚子の木は、ことしは僅かに五つの実を着けた。私は五つとももいで、湯船に浮かべるつもりだった。「冬至だから、ユズは全部、取るよ!」「パパ。全部は取らないでよ。料理の香りにするのだから…」。これだけの私と妻のとの会話が、わが取るつもりの思惑に邪魔をしたのである。一つであろうと五つであろうと、構わない。なぜなら「ユズ風呂」は、無病息災を願うだけの、もとより効き目のない「ゲン担ぎ」にすぎない。すなわち、「ユズ風呂」は、古来の歳時を引き継いだ子どものままごと遊びにも似た、おとなの「おまじない」である。しかし、湯船の中のユズの香りは、なんだかなあー…、病を撥ね退けてくれそうな心地良い香りである。私は、たった一つだけのユズの実の香りに満足した。一方、たった一つだけのユズの実は、冬至におけるユズ風呂の役割を十分に果たした。冬至が過ぎてきょうから、季節めぐりは冬本番へ向かい、すぐに春を近づける。たった一つだけだったけれど、ユズ風呂の中のユズの実の香りは、確かな「一陽来復」の先駆けである。寒気の緩みとユズ風呂の和みの余韻、すなわち自然界と人間界の知恵がおりなすコラボレーション(協和)のおかげで、めずらしく起き立てのわが気分は和んでいる。ユズ風呂の効果は、これだけで十分である。実現不可能なおまじないに、あらたかな効果を求めるのは、人間の切ない強欲である。