続いている「好天気」

 十一月十四日(月曜日)、起きてパソコンを起ち上げ、しばし机上に両頬杖をついていた。頬杖を外し、ポコポコとキーを叩き始めている。片目で見遣る壁時計の針は、五時近くを回っている。夜明けが早い頃で晴れであれば、燦燦と朝日輝く夜明けにある。しかし仲冬の時は、「冬至」(十二月二十二日)へ向かって、いっそう夜明けを遅らせている。それゆえ、前面の雨戸開けっ放しの窓ガラス越しに見る外界は、未だに暗闇である。ところが、私には夜明けの遅いご利益(りやく)がある。それは、執筆に焦燥をおぼえないというご利益である。確かに、私はのんびりとキーを叩いている。めっぽう、うれしいご利益である。
 きのうは、書き殴り特有の締まりのない文章を長々と書いた。挙句、草臥(くたび)れ儲けだけの文章に甘んじた。そののち、草臥れは尾を引いて、きょうは休養を決め込んでいた。しかし、書き出したからには寝起きにあって、心中に浮かべていた一つを書いておさらばである。自然界は、天変地異の鳴動で人間界に罪をつくる。そしてその償いは、四季折々の恵みで果たす。とりわけ、好天気のもたらす償いは、天変地異の罪を蹴飛ばす感さえある。これはこのところの好天気にありついて、わが実感である。きのうの道路の掃除にあっては、自然界のこんないたずらに遭遇した。掃き清めたところに、まるで「待っていました!」とばかりに、ほぼ同量の枯れた枝葉が舞い落ちてきた。憎たらしく、かつ業(ごう)を煮やすところだけれど私は、もはや手に負えず苦笑(にがわらい)を浮かべて、山を見上げた。このときの心境は、好天気恵んだ心象の余裕だったのである。確かに、自然界は罪をつくり、一方で確かに、罪償いをしている。人間界はどうであろうか? しばし、落ち葉時雨の中にたたずみ、あらためて学んだ自然界の健気(けなげ)さであった。
 夜明けて、朝日の見えない曇り空に、数えきれない彩雲が散らばっている。是れ、また好しの夜明けである。