十一月十七日(木曜日)、夜明け間もないところで起き出している。ぐっすり眠れて、気分安らかにパソコンへ向かっている。寝起きの気分の安らぎは、二度寝に恵まれた「成果」である。長く、成果という言葉にはありつけず、それゆえ死語になるのを恐れて、へんてこりんなところで意図して使ったまでである。本当のところ成果の表現は大袈裟すぎて、単に「せい、あるいは、ため」くらいが適当語である。精神の疲れの場合は、二度寝にはありつけない。ところが一方、身体の疲れの場合は、二度寝にありつける。きょうの寝起きは、如実にこの証しを示している。きのうの私は、久しぶりに長く歩いた。そのせいで、身体が疲れた。その報いがきょうの寝起きに顕れたのである。「報い」とは自分自身、常に気をつけないと用い方に誤りを招く言葉である。なぜなら、報いに変えて熟語の「報酬」を用いればそれはずばり、自分がいいこと(善行)をしたことにたいする対価(見返り)となる。ところが、この言葉には善行だけではなく、わるいこと(悪行)にたいする、仕返しの意味もある。すなわち、よく定型的に用いられるものでは、「悪の報い(仕返し)」という表現がある。きょうの文章は、書き殴り特有にまったく締まりがない。この先、こんな文章を書き続けては、せっかくの好気分はたちまち変転し、滅入るばかりである。それゆえこれで、急転直下の結び文とするところである。のどかに、仲冬の朝日が昇り始めている。文章と言えないものには、表題のつけようはない。生きている証しのいたずら書きである。