十一月十三日(日曜日)、未だ薄闇の夜明け前にある。闇は時を追って消え朝日が昇り、明るく夜が明ける。すると、わが気分もまた晴れる。もちろん、曇りや風雨のない晴れの夜明けの場合である。晩秋の「文化の日」(十一月三日)前あたりから、「立冬」(十一月七日)を挟んで、このところまでの自然界は、人間界に胸の透く好天気を恵んでいる。気象予報士は、東京都にははつか(二十日)近く、雨が降っていないと言う。すると、すべてが晴れの日ではなくても、それより前から好天気が続いていることになる。それ以前は異常気象にも思えていた、気分の乗らない天候不順が続いていた。だから、このところの二十日近くの好天気は、自然界の罪償いとも思える粋な計らいである。それなのに寝起きの私は、こんな無粋なことを心中に浮かべている。とことん、大損な性分である。人生とは、文字どおり生存の期間である。期間は、様々な言葉に置き換えられる。すぐに浮かぶものには、生涯や寿命、そして尽きるところは終焉である。生存期間の区切りには年代を見据え、様々な区分の言葉がある。それらの一つを浮かべれば、生年、幼年、青少年、壮年、そして晩年(晩歳・晩節)という、命の繋がりがある。晩年の後をあえて書けば、それは最期である。大まかな二区分では、若年・弱年(じゃくねん)もある。現在の私は、老年・晩年に相寄るところにある。初冬がしだいに仲冬へ深まるにつれ、山の小枝は枯葉となり、微風(そよかぜ)なくともヒラヒラと道路に舞い落ちて、日に日に落ち葉の嵩(かさ)が弥増(いやま)している。現下の自然界は、風情(ふぜい)たらたらと山、黄色や紅(くれない)に染まる好季節にある。ところが私は、それらの煽(あお)りや好天気のもたらすダブルピンチを食らっている。実際には嘆息まじりに額に汗を滲ませ、せっせと落ち葉を掃き寄せては、七十リットルの透明大袋に押し詰めている。それでも、命尽きて枯れて落ちた小枝の姿に私は、ちょっぴり愛(いと)おしさをつのらせている。それは人生晩年から終焉にいたるわが生き様が、落ち葉の姿に重なるゆえであろう。もちろんこんなことでは、心の安らぎすなわち、安寧な日常生活は遠のくばかりである。枯れ葉と落ち葉の多いこの季節は、儚くもわが晩年の写し絵でもある。それでも私は、寒気をともなわなければ私の好む季節である。わが身の斃(たお)れ方、できれば枯れ葉の落ち方に肖(あやか)りたいと願うのは、叶わぬわが欲望であろう。日本晴れに雲の欠片がわずかに浮いて、きょうもまた清々しい仲秋の夜明けが訪れている。わが限りある人生は、自然界のお恩恵に気分を癒され、やっとこさ生存の喜悦にありついている。きょうは、自然界讃歌つのる、仲秋の晴れの夜明けである。道路の掃除はは、落ち葉多い道路の掃除は厭(いと)わない。