「糧」と「絆」

十一月十二日(土曜日)、夜明け前というより、夜明けの遅い初冬の真夜中あたりに起き出している。二度寝を阻まれてきのうとは異なり、現在の私は、眠気眼と朦朧頭に加えて、憂鬱気分の三竦み状態にある。寝起きにあって冒頭より、いつもながらの愚痴こぼしの暗い文章を書いている。私の場合、人様に愚痴こぼしの文章を諫(いさ)められればまったく書けない。なぜなら愚痴こぼしは、わが生来の「ネクラ性分(錆)」の祟りにある。もちろん、嘘っぱちの愚かな表現だけれど、わが愚痴こぼしは文章継続に留まらず、生き続けるための「糧」(かて)と、言ってもよさそうである。世間一般にも人様は、何かというと糧と「絆」(きずな)という、言葉を多用される。耳障りなく響きよく、よっぽどこの言葉が気に入っているせいでもあろう。ところがこのとき、へそ曲がりの私は、これらの言葉にかなり辟易し、挙句、こんな野暮なことを脳裏に浮かべている。それは、これらの言葉を遣う人たちは、言葉の本当の意味を知っているのであろうか? という下種の勘繰りである。電子辞書を開いてみよう。「糧・粮」(かて):「①古代、旅行などに携えた食糧②食糧。特に蓄え置く食べ物。③活動の本源。力づけるもの」。「絆・紲」(きずな):「①馬・犬・鷹など、動物をつなぎとめる綱②断つにしのびない恩愛。離れがたい情実。ほだし」。絶えず復習するは、わが掲げる生涯学習の一端である。実際のところは人様への懸念ではなく、私自身への諫めである。すなわち、自分自身、不断よく遣うゆえに、うろ覚えで疎(おろそ)かに用いてはならないという、みずからへの戒めである。現在の私は、六十(歳)の手習いのツケに見舞われている。ツケ払いはできず、もうやめ時であろう。三竦みが痺(しび)れている。二度寝にありつけない夜は、「生きる糧」にはならない、憎たらしい魔物である。