寝起きに浮かべていた、「待つ」心境

十一月八日(火曜日)、寝起きにあって私は、心中にこんなことを浮かべていた。人生において楽しくうれしいことのひとつは、駅のプラットホームや改札口などにおいて、長く佇み待つ出会いどきの心境かもしれない。とりわけかつて、ブルートレイン(夜行列車)で初めて上り来る年老いた母を、当時の国鉄・JR東京駅の十番線ホームで待ったおりの心躍る心境は、今なお絶えず心中に甦るものの一つである。反面、人生において寂しく侘しいことのひとつは、ときたま出没する死を待つ心境なのかもしれない。すなわち待つ心境は、文字どおり悲喜交々である。もちろん私は、死の訪れをびくびくして待っているわけではない。なぜなら死との出会いは、無事に来るか来ないかという、人待つ心の乱れとは違って、必然である。だからと言ってもちろん、私は泰然自若の心境にはなれない。いや、正直なところは、どうにでもしろ「俎板の鯉」、言葉を飾り嘘っぱちに言えば、「天命を待つ」心境である。寝起きにあってきょうもまた、私は心中にこんなくだらないことを浮かべていた。現実に戻ればきょうのわが行動予定には、妻の病院通いにたいする引率同行がある。これには、待合室で待つ時間がともなうこととなる。そして、出会いは主治医である。もとより、楽しさ、うれしさなど望めない、へんてこりんな出会いである。もちろん、死を待つ出会いではなく、あがきもがいて少しでも、死を遠のける出会いである。「立冬」から一夜明けた大空は、日本晴れである。しかしそれには、寒気の装いが漂っている。晩秋に比べて初冬、確かに言葉の響きに寒々しさがともなっている。