十月二十六日(水曜日)、夜明け前の五時過ぎにパソコンを叩き始めている。しかし、眠気眼で朦朧頭である。最低、一週間ほどはと願っていた安眠は、中ほどで虚しく途切れた。二度寝にありつけないままに寝返りを繰り返し、挙句、悶々気分に脅かされて、仕方なく起き出している。最も気分が休まるはずの睡眠がこうも体(てい)たらくでは、もはや気分が休まるところはない。何かの罰当たりを被(こうむ)っているのであろうかと、自問を試みる。しかし、その根拠や自覚はない。生きて、安眠を得られないようでは、その解決策は永眠しかない。だからと言ってすぐには、永眠願望はないけれど、ちょっぴり憧れるところはある。
こんな棒にも箸にもかからない私的なことを書き続けているせいであろう。「ひぐらしの記」は、読む人離れのドツボに入りつつある。自業自得のなれの果て、確かな証しである。こんなことではなさけないと、世の中のこと浮かべれば、行きつくところは、目下の新型コロナウイルス状況である。コロナへの感染状況は漸減傾向を深めていたけれど、メデイアの報道によればこれに歯止めがかかり、また増勢傾向を強めはじけていると言う。そうだとすれば私は、コロナには罹らずとも、マスクを着けて永眠する羽目になりそうである。
これまでも何度か書いたけれど、私の場合、マスク着けの日常生活はまったく楽しくなく、もう懲り懲りなのである。それは人様と比べて、余計神経を使う生活を強いられているからである。実際には、難聴対応の集音機、近眼正しの眼鏡、さらにはコロナ感染防止のマスクの紐などが、両耳にかかっているからである。これらにより私は、鬱陶しさ、煩わしさ、神経の尖り、すなわち三竦みの状態に悩まされている。大袈裟でもなくこの状態は、結構面倒である。
きょうもまた、こんな書くまでもない私的なことを書いてしまった。確かに、「ひぐらしの記」は、尻すぼりに留まらず、必然的に潮時にある。夜明けの空は、大海原の日本晴れ。私は両目を見開いて、眠気眼(ねむけまなこ)を癒している。