わが人生における最大難渋、それはデジタル社会

九月七日(水曜日)、いまだ夜明け前の暗闇である。目覚めたゆえに起き出している。文章を書く時間はたっぷりとある。ところが書けない。文章は心象風景が醸す描写である。気力充実、気分上昇のおりにはやたらと書ける。しかし、その逆のおりはまったく書けない。文章ほどあからさまにみずからの精神状態を露わにするものはほかにない。「南無阿弥陀仏」、ネタなくこれで結文としたいところである。きのう書いた文章の表題には、『わが人生の最大幸福』と、書いた。すると現在、わが心中に浮かんでいるのはその逆である。あえて文字にすれば「わが人生の最大不幸」である。しかしながらこれは大袈裟すぎて、見え透いた言葉遊びにすぎない。実際のところはわが人生において、期限を切って現在、難渋しているものではと、言い換えるべきものである。遠回しの表現は止めてズバリ言えばそれは、わが手先の不器用と脳髄の劣弱とが相まって、私自身のデジタル社会への不適合(不適応)である。それなのに社会は、日々デジタル社会への加速度を強めている。おのずから私は、その潮流に乗れずに「置いてきぼり感」を強めて、それにさいなまれている。逆に言えばデジタル社会に適合し、あらゆるデジタル機器を駆使できれば苦悩せず、どんなに快楽であろうかわが身の回りのデジタル(電子)機器は、おおむねパソコン、スマホ、デジカメ、これらに加わるものでは、印刷機、固定電話のファックス機能がある。電気機器ではテレビ、エアコン、固定電話、給湯器、レンジ、冷蔵庫、掃除機などである。要はこれらがちょっとでも壊れると、にっちもさっちもいかずに狼狽(うろた)えて、私は慌てふためいている。銀行の出入機、スーパーの支払い機にさえ戸惑うばかりである。どうにかすんなりとタッチしているのは、電車やバスの乗降口における、乗車券代わりの「スイカ」くらいである。もとよりデジタル社会は、人間社会の利便性を眼目にして、日進月歩を続ける人間社会協同の施策である。それに乗り遅れて、余儀なく苦悩をこうむっているのは、だれに転嫁のしようもないみずから種を蒔いた、「わが人生の最大不幸」と言えそうである。確かにこれは、最大不幸とは大袈裟すぎてその予備軍、すなわち「わが人生における最大難渋」くらいに、留め置くものであろう。現在のわが心象風景は渋っていている。それゆえ、こんなことしか書けない。朝日薄っぺらく、のどかな夜明けが訪れている。人為のない、もちろんデジタルのない自然界は、人間社会に付き纏う憂さを晴らしてくれる。だから私は、こよなく自然賛歌を唱えている。きのう続いて、きょうもまた、表題のつけようのない文章である。