表題のつけようのない、戯言(ざれごと)

九月五日(月曜日)、いつもの習性すなわち二度寝にありつけず、真夜中みたいな時に起き出している。このことだけですでに、十分疲れている。私の場合は、安眠こそあらゆる薬剤に勝る、効果覿面の薬剤である。安眠、すなわちこんなたやすいことさえ叶えられないことには、精神異常であろうかと、思うところがある。ここ二日は、文章を休止した。書けば、こんなことしか書けない。それゆえにきょうもまた、書くつもりなかった。早起きしたための空き時間は、仕方なく生涯学習に当てていた。ところが、もとよりいやいや気分の学習では空き時間は埋めきれない。つまるところパソコンにすがり、これまた仕方なくこの文章を書き出している。それでも夜明け前まで、まだたっぷりと時間がある。だとしたら腰を据えて、文章を書けばと思うところはある。ところが、その気にならない。おのずから、空き時間の埋めようをめぐらしている。その処方箋には、三つほどが浮かんでいる。最も手っ取り早いものでは、寝床へのとんぼ返りである。もう一つは、外灯を頼りに道路の掃除への早駆けである。最後の一つは、雑草きわまりない庭中の草取りである。ところが、どれもが決め手にならず、パソコンにすがっている。確かに、この先を書けば、最後には慌てふためくほどに空き時間は埋められる。しかし、それにも気力がともなわない。嗚呼、なさけない。「ひぐらしの記」は、ただ生きているだけの証しに成り下がっている。きのうは、東京へ向かった。都下・国分寺市内に住む、次兄の機嫌伺いである。出かけるたびにだんだん、わが気分は沈んでくる。次兄とわが年齢差は、十(とお)である。優しい次兄なくしては、この世に私の存在はあり得ない。だから、恩返しに果てはない。わが体調不良は、機嫌伺いの可否の言い訳にはならない。行けば次兄は、逆に真っ先にわが体調を案じてくれる。いや、妻、娘、孫へいたるまで、私同様に案じてくれる。いつものことだけれど、出かけるときは気懸かりだけれど、帰りには気分が晴れている。しかし、これも期限付きである。きょうは気分の晴れに恵まれて、休むつもりの文章が書けたのである。いや実際には、空き時間潰しである。ところが潰し切れずに、夜明けまではまだたっぷりと空き時間を残している。生きている証しだけの文章は、つくづく遣る瀬無い。三日連続の休止を恐れた文章でもある。表題のつけようはない。沈んだわが心を癒す、さわやかな秋の訪れを願っている。