八月二十六日(金曜日)、さわやかな秋とは言えない、ぐずついた夜明けが訪れている。わが気分は、鬱状態である。気象のことはちんぷんかんぷんで、まったくわからない。ところが、わが気分の崩れはわかっている。それは二度寝にありつけないことが招く、煩悶のせいである。煩悶に苛(さいな)まれるのはなぜか。それもわかっちゃいるけれど、どうにもならない。なぜなら、わが人生行路にとりつく傷(いた)みだからである。
文は人なり。大沢さまの文章は常に前向き。わが文章は常に後ろ向き。もとより、人間性と器の違いの証しである。創作分とは異なり「ひぐらしの記」は、わが日常生活をありのままに書いている。もちろん、文飾(ぶんしょく)のしようはなく、恥をさらけ出して書いている。もとより、恥をさらけ出すことには吝(やぶさ)かでない。なぜなら、恥さらしを怖がっていたのではネタなく、文章はすぐさま頓挫の憂き目を見ることとなる。いや、呻吟しながら書くのは、大損であり野暮でもある。だから、恥晒しなど知ったこっちゃない。確かに、恥晒しを恥と思えば、十五年も続くはずもない。
「ひぐらしの記」と、ほぼ同時に誕生した孫のあおばは、現在中学三年生(十五歳)である。私は根っからのふるさと志向の塊である。ところが、わがふるさと生活は十八年にすぎない。これらのことをかんがみれば、おのずから「ひぐらしの記」の長さ浮き彫りとなる。すなわち、恥晒しを恥と思えば、書き続けられるはずもない長さである。もとより、六十(歳)の手習いは恥さらしである。ところが恥さらしは、「ひぐらしの記」継続の根源となっている。仕方なく、そう悟りきってはいる。それでも、さらけ出す恥の多さには辟易している。結局、二度寝にありつけない原因は、総じてわが人生行路から生じているさまざまな傷みである。だから、いのち尽きるまで修復のしようはなく、二度寝など望むべくもない。もっぱら泣き寝入りしか、眠る方法はないであろう。
こんな実のないない文章であっても、十五年継続の足しにはなっている。もちろん、わがお里の知れる文章である。二度目の夏風邪は、まだ治り切っていない。憂鬱気分を晴らす、さわやかな秋の訪れを願っている。