鳥とセミの鳴き声

八月十六日(火曜日)、確かに夜明けの風は、夏風から初秋の風に変わりました。誰に教えを乞うまでもなく、わが肌身が確りと教えてくれています。「八月盆」の送り日にあって、世の中の人様の動きは、いやいやしながら帰り日になるでしょう。私の場合は、まるでカタツムリさながらに動きのない日常です。それでも生きているかぎりは、三度の御飯と三時のおやつ、さらには間髪を容れない駄菓子と水道水のがぶ飲みは、欠かせません。この祟りにあってわが身体は、こけしのようなスマートさは望むべくもなく、だるまのように上半身だけが丸膨れ状態に見舞われています。最近はこの上部体を両脚が支えきれずに、私はノロノロ、ヨロヨロと、歩いています。挙句、加齢のせいにしては両脚の衰えが早いなあーと、自覚せずにはおれません。「ダイエットをしなさい! わかっちゃいるけど、餓鬼食いをやめられないのです!」。わが生来の意志薄弱のせい、いや大きな祟りです。書くことも、書きたいこともなく、なさけない文章を書きました。落ち葉掃きに手古摺り、狭いい庭中なのに夏草取りに往生しています。外にいようと、茶の間のソファにもたれていようと、山の鳥の声が夜明けから夕暮れまで、難聴の両耳に聞こえてきます。これにこのところは、セミの鳴き声が加わっています。もちろん両耳に、集音機は嵌めています。妻は「パパ。鳥やセミの鳴き声、うるさいわねー…」と、言っています。しかし、私は呼応せず、「うるさくないよ。そう言うなよ。それらは、人間のために必死に鳴いてくれているのよ。いや、それら自身、鳴かずにはおれないのだ。切ないじゃないか!」「夕方には、カナ、カナ、カナ、…と、ヒグラシが鳴いているわよ」「セミのいのちは短いのだ。鳴きたいだろう?…」。玄関ドアーのところには、アブラゼミが転げていました。私は指先で拾い、しばし眺めて静かに植栽の陰に置きました。亡きがらは棺(ひつぎ)に入れられることもなく、真夏の日照りや、秋の台風にさらされて、いずれは庭土になるのでしょう。いよいよ季節は夏と別れて、心寂しいが近づいています。鳥やセミには、切なくとも思う存分鳴いてほしいと、願っています。人間は泣きたくとも、思いっきり泣けないだけ、大損です。案外、鳥やセミは、人間の代替役を務めているのかもしれません。切ないです。