八月十四日(日曜日)、山の木々の吹き付けを恐れて、全部閉め切っていた雨戸を次々に開けた。眼下の道路は濡れて、山から落ちた木の葉が汚らしくべたついている。しかしそれは、普段の夜来の雨上がりの様子とまったく変わらない。無色の朝日が家並の壁にあたり、白さをきわだたせている。懸念していた台風は、小嵐程度で過ぎ去っている。玄関口を出て見回りしても、家周りに被害はなさそうである。恐れていたぶん、私はのどかで平和な夜明けの境地にある。台風被害に遭っていれば、もちろん逆に、この境地はさんざんである。私の場合、台風には忌まわしい過去の出来事がある。それは屋根が損壊し、カラーベストが方々に落下して、業者に修復を依頼した悔恨である。それ以来私は、台風予報を極端に恐れるようになっている。すなわちそれは、貧相な納屋みたいな建屋に住まざるを得ない、甲斐性無しの祟りである。その証しにはそのときの台風で被害を受けた家は、1200戸くらいある住宅地の中でも、わが家一軒だけにすぎなかった。恥を晒したけれど、修復が叶うと安堵し、意識して恥は忘れた。しかし、台風被害はもうこりごりである。こう思う半面なお、わが家の貧相さをかんがみて、それ以来台風予報には大小にかかわらず恐れて、わが身を強く痛めている。かつての私は、台風一過の日本晴れに気分をよくしていた。ところが現在は、その気分にはまったくありつけない。いや、台風予報が出ると、発生のときから戦々恐々を強いられている。夕べの台風一過は、さわやかな秋風をもたらしている。しかしながら、かつてのように心地良いと言えないのは残念無念である。忌まわしい過去の出来事にはそののち、トラウマ(心的外傷)が憑き物である。台風被害の残滓(ざんし)と言って、もちろんのほほんとしてはおれない。