文章は手に負えない

 七月三十日(土曜日)、週間天気予報によれば、今週末すなわちきょうあたりから、本格的な夏の訪れである。この予報はぴったしカンカンで、清々しい夜明けの訪れにある。私には風景を芸術的に描写する能力はない。だから、肩ひじ張らず眼前に見たままに描けば、朝日に照らされて大空一面は、真っ青の日本晴れである。言うなれば天上は、本格的な夏空である。地上はそのおこぼれを頂戴し、さわやかな夏の朝である。
 さて、私は文章を書いて、恥を晒すことには吝(やぶさ)かでない。しかしながら、身には堪えている。それは、継続のためにはネタ不足を補うために、自分自身の恥を晒してまでも、ネタ不足を埋めているからである。ネタさえあれば文章は、文意に沿って語彙(言葉と文字)を並べてゆくだけである。確かに、これだけでは文章には程遠いけれど、一応格好はついてひとまずほっとする。
 六十(歳)の手習いにすぎない私が文章論を記すことは、烏滸(おこ)がましいかぎりである。それでも私なりに、文章を書くにおいて、意をそそぐものはある。反面それは、間違ってはいけないと、気を懸けるものである。それらの筆頭は、文意を外れた文脈の乱れである。究極、これだけで、文章とは言えない。だから、そのほかは、誤りの枝葉である。そしてそれらには、用いる語彙の不適当、漢字の誤り、パソコンで書いているから転換ミスの放置、さらには誤字脱字など、うっかりミスが多々ある。すると、「書かなきゃよかった!」、すなわち気分が晴れることはない。
 「捨てる神あれば拾う神あり」。ただし、ときたま憂鬱気分が癒されることがある。それは、思いがけずふと、文脈にふさわしい語彙が浮かんだときである。そのときは、まさしく快感である。ときたまと書いたけれど、実際にはめったにないゆえ、訂正しなければならない。なぜなら、十五年ものの長いあいだ書いてきたけれど、快感をおぼえた記憶はない、いや少しはあっても薄らいでいる。快感がないのはずばり、六十(歳)の手習いの祟(たた)りであろうか。
 きょうは起き立てにあって、いやきょうもまた、独り善がりに「犬も食わない」文章を書いてしまった。ひたすら、忝(かたじけな)く思うところである。短い文章ながら、文章の体(てい)に誤りがあれば、たちまち気分が滅入るところである。それであればきょうは、ようやく訪れた夏の朝の気分を堪能し、気分を癒したいものである。朝日の輝きが照らす、天上、地上、そしてその空間は、真空管さながらにきわめてさわやかに清浄である。文章は手に負えない。