ようやく、夏の訪れか?

 七月二十日(水曜日)、まもなくどっこさと朝日が現れそうな夜明けである。しかしながら、いまだ本来の夏の朝とは言えそうにない。「弘法も筆の誤り」。大空模様を寝ずに寸刻も空けず観測する名うての気象庁が、ミスするわけはないとは思っている。しかし、本当に梅雨は明けているのだろうか? と、再びの疑念が生じていた。なぜなら私には、梅雨明けは日本列島のどこかに、雨による災害をもたらしてのち明けるという、過去体験からもたらされている確かな信念がある。
 このところ連日、テレビニュースは、日本列島のあちこちにおける洪水や土砂崩れの被害状況を伝えている。これらのニュースを見聞すると私は、例年の梅雨明け前の状況の写し絵を観ているように感じていた。言うなれば、梅雨明け前の典型的な気象現象である。一方ではむりやり、気象庁が間違うわけなどないとも思っていた。だとしたら、ケチをつけるだけのわが下種の勘繰りである。
 さて、このところの私は、糠喜びと喜びと腑抜け状態の心境にある。これらの心境は、掲示板に表示のカウント数値の一日当たりの増減によってもたらさている。カウント数値とて、延べ人数含みだから実数は知るよしない。ところが、きのうよりきょうが増えていれば糠喜び、その逆の場合は腑抜け状態になる。確かに、ごく小さな数値に一喜一憂するのは馬鹿げている。しかしながらそれには、わが成績表を愉しんだり、悲しんだりする思いがある。大まかには、カウント数値は減少傾向にある。わが文章のまずさの証しだから自業自得である。確かに、苦しんで書く価値(甲斐)はない。それゆえに私には、ご常連の皆様のありがたさが身に沁みている。もとより「ひぐらしの記」は、わが六十(歳)の手習いと、掲げている生涯学習のノート代わりである。自分自身のノートであれば生来三日坊主の私は、二日と続かないのが常である。ところが「ひぐらしの記」にかぎり、べらぼうに長く続いている。これこそ、ご常連の皆様から授かっている果て無い恩恵である。浮かんでいる文章の構文を用いれば、「いくら感謝しても、しすぎることはない」。
 きょうの文章は、何ら脈絡のない独り善がりの文章である。それゆえたぶん、カウント数値は減るだろう。だけど、「お構いなし」。今や継続だけが価値(甲斐)の文章である。指先ヨチヨチのせいで時間がたって、雲間に青空が見えて、いくらか朝日が輝いている。待ち望んでいた夏の朝の訪れである。きのうの災害報道を打ち止めにして、案外、きょうから梅雨明けなのかもしれない。気象庁にはちょっぴり、恨みつらみがある。しかし、ようやく訪れた夏の朝にあっては、もうそんなつまらないことは忘れよう。なぜなら、降り続いていた雨は上がって、わが好む夏がやって来たのである。こんな文章を書いたからと言って、私には気狂いの自覚症状はない。