わが命(人生)、八十二年

きょうは七月盆のさ中の七月十五日(金曜日)、父と母の面影を眼前に浮かべて、とびっきり懐かしく偲んでいる。わが人生に「悔いはない」、とは言えない。いやずばり、「悔いがある」と言えば、面影の父と母を悲しませたり、蔑(さげす)むことにもなる。だから、いくらか見え透いたことばで飾り、「尊い人生、ありがとう」と、つぶやいている。人生行路は、荒れ狂う荒波にたとえられる。もちろん、厳しいゆえであろう。私は、サーフィンや波乗りは苦手である。子どもの頃にあっては、「内田川」の漣(さざなみ)にさえ溺れかかったこともある。七月盆のさ中にあっては奇しくも、きょうはわが八十二歳の誕生日である。人生の荒波を乗り越えて、生き延びてきたことには万感の思い、極みにある。だからと言って、それらをいちいち浮かべて、書き記す能力は、私にはない。いや、無理やり浮かべれば、後悔だらけになりそうである。挙句、万感の思いは、せつなく色あせる。それは、御免こうむりたいものだ。だから浮かべず、文章もこれで書き止めとする。夜明けて朝御飯の支度までは、まだたっぷりと時間がある。ならば、わが命(人生)の八十二年の来し方、そしてこの先、命果てるまでの行く末に思いを馳せてみよう。八十二歳の誕生日祝いは、机に頬杖をついて、身体の無病息災にたいし、ひとり、祝杯を挙げることとする。精神は、かなり病に罹っている。