生煮えの夏

 七月十四日(木曜日)、朝日の見えない夜明けが訪れている。このところは、曇りや小雨模様の夜明けが続いている。それゆえ、夏の朝の醍醐味は薄れかけている。夏の朝にかぎらず、私は夏の夕暮れも大好きである。ところがこちらも、夏らしさが遠のいている。確かに、例年であればいまだ梅雨明け宣言をみないか、梅雨明け間近のところである。カレンダーでもいまだ、七月半ばである。猛暑をともなう夏本番は、これからだとは知りすぎている。しかしながら、梅雨が明ければ「夏だ!」と、身体がおぼえている。このことでは朝夕にかぎれば、今のところは生煮えの夏である。
 夏の夕暮れを好むのは、暮れなずむひとときにあって、部屋の電気を一切つけず、網戸から忍び込む涼風を愉しめるからである。昼間の余熱は、涼風にしだい冷やされて、身体のみならず心が和んでくる。それゆえ私は、夏の朝に負けず、これまた夏の夕暮れ礼賛の境地に恵まれる。だけど、私がいくらへそ曲がりだからと言っても、「夏本番の暑さ、早く来い来い!」とまでは言うつもりはない。しかし、なんだか拍子抜けの気分にはある。
 二度寝にありつけないことには、もとより副次効果などあるはずはない。ところが、副次効果かな? と、疑うものはある。なぜなら、二度寝にありつけずに起き出してくると、そのぶん執筆時間がたっぷりとある。私にすればべらぼうな恩恵である。確かにこのところの私は、この恩恵を無駄にせず、気分ゆったりと焦らず、長文を書き続けている。再び言えばこれは、執筆時間的にはとんでもない恩恵である。なぜなら、寝坊したときの私は「あわてん坊」となり、つれて精神状態は尋常ではない。私は、どうでもいいことを書いている。
 きょう書きたかったのは、唯一このことだけである。すなわちそれは、新型コロナウイルスのぶり返しの恐ろしさである。わが四度目のワクチン接種は、今月(七月)の二十一日と決められて、すでに届いている。四度目となると事前準備は、手慣れたものである。またまた、往復の無料のタクシー券も届いている。「風が吹けば桶屋が儲かる」。こんなまわりくどい儲けではなく、タクシー会社は笑いが止まらず「ウハ、ウハ」であろうか。しかし、私の場合はそんなに喜ぶ心境にはなれない。なぜならそれは、市税の一業者への垂れ流しであろう。いや、こんな下種の勘繰りは止めて、素直に思い及ばない粋な市の施しに感謝すべきであろう。一方、タクシー会社とて、社会奉仕の精神にあふれて、ここを先途に頑張ってくれているのであろう。しかし、こんな状態がいつまで? いやわが命の終焉まで続くのか? と、思えば落ち落ちとはしておれない、この頃のわが日暮らしである。
 曇り空が少しずつ明るみ始めている。雲隠れをいいことに寝坊をむさぼっていた朝日が、やおら目を覚ましたのかもしれない。こちら、すなわち朝日の輝きは無償の恩恵である。身勝手に私は、「目覚め、遅すぎだよ!」と言って、発破をかけたくなる。欲深い私は、一方、夕暮れ時には早い時間からの雲隠れを望んでいる。私は虫が良すぎるであらろうか? 確かに、虫が良すぎるのはわが本性(ほんしょう)である、いや人間の本性である。とりとめなく、書くまでもないことを書いた。結語は、「恥を知れ!」である。