二度寝にありつけない、祟り

 七月十二日(火曜日)、起き立ての私は意識朦朧としている。おのずから、文章を書く気分は萎えている。すっかり私には、二度寝にありつけない状態が常態化している。もとよりつらく、困ったものである。二度寝にありつけないとき人は、いろんなおまじないを試みる。心中で羊を「一匹、二匹」と、数えたりする人もいる。こんな幼稚なことで二度寝にありつけたらしれたもの! 悩むことなどない。もちろん私も、いろんなおまじないを試みている。ところがどっこい、二度寝にありつけるどころかいっそう深みに嵌ってゆく。そして、桃源郷と思える睡眠時間はいたずらに過ぎてゆく。焦りをともなって、なおさまざまなおまじないを試みる。しかし、埒(らち)明かずで、瞼が閉じるどころかますます目が冴えてくる。
 ならばといや仕方なく、いつもであれば枕元に置く電子辞書へ手を伸ばす。ところが昨夜は、電子辞書にすがることなく、心中に浮かぶままに言葉の復習を試みた。いやそれには、認知症状有無のテストを兼ねていた。実際には事の始まりを表す語彙のなかで、漢字によるものを浮かべていた。ふと浮かんだのは、起源、原始、源泉、発端、開会、開始、始業、開業、開戦、創業、創立、開闢(かいびゃく)、濫觴(らんしょう)、嚆矢(こうし)などであり、わが脳髄の限界を知ることともなった。もちろん、キリなくあるであろう。
 人間であれば身近なところで、誕生、生誕、生年などが浮かんでいた。これらの中から二つだけ取り出すと、偶然にもきわめて都合の良いものがある。すなわち、母校中央大学の創立年と父親の誕生年が共に、明治18年(1885年)である。母校に限らず学び舎は、周年事業や周年祝典などが盛んである。そしてそれらは、毎年めぐって来る。すると好都合に、そのたびに私は、父の面影をありありと偲んでいる。
 確かに、二度寝にありつけないことに棚ぼたはない。しかし、もしあるとしたら、こんなことであろう。まだ、朦朧意識と気分の萎えは収まっていない。自力叶わず私は、夏の夜明けの清々しさに気分直しを求めている。