七月十一日(月曜日)、もちろん「ひぐらしの記」の継続を断ちたくないためではない。しかしながら敢えて、書きたくないことを書き出している。わが気分は萎(な)えている。いや、気分をつかさどる「心」自体がすっかり萎えている。きのう(七月十日・日曜日)は、心寂しい一日だった。参議院議員選挙は、まったく関心なく済んだ。それよりなにより、私は妻の歩行をおもんぱかって、端(はな)から棄権を決め込んでいた。ところが、当てが外れた。言い出しっぺは妻である。「パパ。選挙へ、行きましょうよ」。こんなぐあいだから、わが心の寂しさは、選挙(開票)結果の良し悪しや是非のせいではない。それは、これまでであれば投票動作を含めて、投票所往復歩行で三十分程度だったのものが、二時間近くもかかったせいである。妻は杖をついている。歩いては立ち止まり、再び歩き出してはすぐに立ち止まる。私は妻の傍らというより、背後にぴったりとついて、妻と寸分違(たが)わぬ歩行を繰り返している。炎天下のせいというより、妻の歩行を見遣る切なさで、わが額にも汗がにじんでくる。妻は息切れ「フーフー」に、何度もマスクはずれの顔面の汗を拭いている。まぎれもなくわが夫婦は、人生の終末期を歩いている。これに同居する「ひぐらしの記」は、おのずから擱筆(かくひつ)間近にある。このところの私は、短い文章の願望にある。願ったり叶ったりきょうの文章は、飛びっきり短い文章で書き締めである。きのうを引きずり、きょうもまた心寂しい一日なりそうである。いや、心寂しさは、きょうで打ち止めとはならず、この先、日を替えていや増してくること請け合いである。四字熟語の「偕老同穴(かいろうどうけつ)」は、言葉の意味そのものはきわめて易しいけれど、実践するのは至難のわざである。朝日がのどかに輝いている。確かに、いくらか萎えている心の賦活剤にはなる。しかし、自然界すがりの一時しのぎの対症療法にすぎない。要は、わが頑張りのしどころである。書くまでもないことを書いて、妻に済まない。