七月十日(日曜日)、雨はないけれど舗面の濡れた夜明けが訪れている。このところ昼間、暑さが遠のいて、早や秋の気配さえ感じる夏の朝である。あんなに人が、声高に「暑い、暑い!」と、唱和していたのに、暑さはまぼろし状態の感さえある。七月盆を迎える来週あたりには、夏本来の暑さが戻るであろうか。夏に暑さが遠のくことは、うれしさ半分、寂しさ半分である。いくらかやせ我慢のきらいがあるけれど、半分は本音である。寝起きの私は、夏の醍醐味を浮かべていた。それらをランダム(順不同)に書けば、私の場合にはざっとこんなものがある。私の場合と限定したのは、もちろん人それぞれに、かつさまざまに異なるからである。このところ、わが買い物用の大型リュックには、必然的にトウモロコシが入っている。嵩張らないものでは、ミョウガ入っている。好きな冷ややっこに添えるためである。キュウリ、トマト、ナスは、夏の買い物の定番品である。夫婦共に、旬(しゅん)の夏野菜三品を好むからである。果物では出盛りを過ぎたサクランボから、出回り始めた桃に切り替えている。大好物の西瓜は、指は咥えないけれど、垂れそうな涎(よだれ)をグッと吞み込んで、我慢を続けている。理由は、それだけで手に負えないほど重たいからである。ただ、この我慢も、来週のわが誕生日あたりには解禁を目論んでいる。好物の我慢の息切れのせいである。かき氷はこれまた我慢というより、こちらは諦め(見切り)の境地にある。新店にゆらめく馴染みの「氷旗」に誘われて、まるでお上りさんの如くに恐る恐る陳列棚を眺めたら、800円と表示されていた。(このやろう!)とは叫ばなかったけれど、叫びたい気分だった。確かに、いくらかのケチ心はあるけれど、私はかき氷には見栄の良い余分な飾り物は望まず、山もりの三角帽子に赤、緑、黄色、どれかの蜜かけくらいでいいのである。それなりに値段も、安価なものである。なぜなら、かき氷を食べるのは嗜好のほかに、いっとき童心を蘇らせるためである。ならばやはり、たったの一度くらいは食べて、行く夏を惜しむ、ような至境にありつきたいものではある。だから大袈裟に言えば、800円のかき氷を虎視眈々と狙っている。もとより成否は、わが決断しだいである。食い意地張って、夏ならではの好物の食べ物をつらつらと書いた。確かに、キュウリ、トマト、ナスは、夏限定ではない。しかしながらこれらには、あえて旬という言葉を添えている。この言葉こそ、みそである。繰り返しになるけれど食べ物以外で夏の醍醐味として浮かぶものでは、冬布団はもとより薄手の夏布団さえほぼ用無しと、着衣の軽装がある。とりわけ、風呂場における脱衣の容易さは、飛びっきりの夏の恩恵である。これらに、夏の朝、夏の夕暮れ、昼間の木立の風、夜間における網戸から忍び込む風の涼しさなど、夏の風の恩恵はキリがない。雨の場合は、一雨ほしいときに降る雨、日照り雨、夕立の恩恵が際立っている。きょうもまた、だらだらと長い文章を書いた。しかし、夏の醍醐味、すなわちわが夏三昧のことゆえに、いつもとは違って疲れはない。いや、精神高揚してまだ書き足りないくらいである。こんな文章を書いても、人様から「おまえは、空(うつ)け者」(バカ者)とまでは言われまいが、天邪鬼(あまのじゃく)とは言われそうである。それでも書かずにはおれなかった、わが感ずる主だった「夏の醍醐味」の面々である。