起き立ての過ち

六月二十六日(日曜日)、梅雨明け間近かな? と思わす、日本晴れをしたがえた朝日が照り輝いている。このことではたぶん、昼間の日本列島の各地は、真夏日(気温三十度以上)、あるいは猛暑日(気温三十五度以上)に見舞われるであろう。気象という自然界の営み、いや言葉をいくらかの悪意を持って変えれば、仕業(しわざ)であるから抵抗のしようはない。だから、「泣き寝入り」という、言葉を添えてみたくなる。一方、真夏日や猛暑日なく冷夏であれば、それはそれで夏らしくなく、夏の季節を好む私は、大慌てになり戸惑うであろう。実際にはこのところわが夏好きは、四季の中にあって冬のみを後塵に拝するほどまでに、順位を下げつつある。それは、夏好きの基を成していた「内田川」における水浴びや水遊び、かつまた、ひんやりとした蚊帳吊りの中の寝床の感触、さらにはよだれたらたらに連日ありついていた西瓜食いの情景など、今や夢まぼろしのせいである。現在、窓ガラスは網戸に替えている。このため、夏風それともまだ朝風と言うべきか、心地良い風がわが身を潤し、そして慰めてくれている。このおかげで、沈みがちだったわが心身は、現在いくらか回復途上にある。さて、わが「最後の晩餐」は、この先いつ訪れるであろうか。できれば、わが大好物の赤飯の食い仕舞(じま)いを願っている。このところの私は、身体不良かつ精神不調に見舞われている。だからと言ってもちろん、それらのせいではなく、浅学非才、もとよりわが凡庸な脳髄のせいである。すなわち、このところ書いている文章にミスが目立っている。きのうの文章ではとうとう、アナログをアナグロと書いてしまい、訂正すら怠っていた。苦しんで書いて、大恥をかくようでは、書かないほうがいい、いや死んだほうがましである。きのう恥さらしといくらかの反省を込めて、きょうは休養を決め込んでいた。ところが、いつもの起き立ての書き殴りに誘われて、書いてしまった。表題は、「起き立ての過(あやま)ち」でよさそうある。だから、この先は、書き止めである。夏風を装う朝風は、味方となってわが気分を癒している。「日光、結構、コケコッコウ」、使い方を間違えたかな? 電子辞書を開いた。「ない」。ミスが絶えない、悩みが増幅した。