「バカは死ななきゃ治らない」

 六月二十五日(土曜日)、眺望全開、朝焼けの夜明けが訪れている。私は、今なおアナグロとデジタルの違いがわからない。私には、焼きが回っている。普段、よく使う日常語だけれど、電子辞書を開いた。
 「焼きが回る:①刀の刃などを焼くとき、火が行きわたりすぎてかえって切れ味がわるくなる。②年をとったりして能力が落ちる」
 かつての私は、紙の辞書を使っていた。ところが現在は、それは書棚のお邪魔虫へと、成り下がっている。あんなにお世話になったことをかんがみれば、何かしらの供養をしてもいいはずである。書棚を棺桶と置き換えれば、線香に火を灯し、しばし合掌でもすれば気休め、いやいくらかの恩返しにはなるだろう。紙の辞書を断った現在は、電子辞書とスマホ搭載の辞書にすがっている。紙に比べて、後者の使い勝手の良さは格別である。後者・二つの比較では、共にどっこいどっこいである。いや、語彙の学びを生涯学習に掲げている私の場合は、スマホのほうがいくらか優れものである。中でも漢字を学ぶには、スマホのほうがかなり好都合だからである。ずばり、スマホの場合は、書き順をスラスラと示してくれることである。紙と電子の違いが、アナログとデジタルの区分けなのか? 私は、 わが脳髄の貧弱さに呆れかえっている。
 バカのついでに、こんな自問を試みる。目に見えないもので、大切なものは何だろうか? 容易に答えにありついた。それは「心」である。また、電子辞書を開いた。
 「心:①人間の精神作用のもとになるもの。また、その作用。②知識・感情・意志の総体。からだに対する」
 「体」は目に見えるけれど、見えない「心」はいったいどこにあるのだろうか? 私は文章の中でよく、「心中に、胸中に、あるいは脳裏に」浮かべてなどと、書いている。まるで、胸あるいは脳裏(頭)と同様に、心中すなわち「心」がからだの中に実在しているような書きぶりである。しかしながら実際には姿なく、たちまちこんがらがってくる。起き立ての私は、自覚的に気狂いはしていない。
 梅雨の晴れ間、きのうの私は、ほぼ一日じゅう庭中の草取りをした。百円ショップで買い求めたプラ製の腰掛けに臀部(尻)を下ろし、まるでドンガメの如くにのろのろと前へ進んだ。このときの私は、「心中、胸中、脳裏」どこでもいいけれど、こんな馬鹿げたことめぐらしていた。すなわち、人間の究極の平等は、年をとること、死ぬことである。一方、人間の究極の不平等は、富裕者(お金持ち)と貧者(貧乏)に分かれることである。このことではまた、馬鹿げたことが、「心中、胸、脳裏」に、浮かんでいた。
 お金持ちは手厚い看護を受けてこの世におさらばできるけれど、貧乏人は野垂れ死の如くでおさらばである。結局、これらのことを書くために私は、だらだらと長い文章を書いたことになる。「バカは死ななきゃ治らない」。とことん、バカな私である。このところは、書くに堪えない、読むに堪えない文章が続いている。
 梅雨時とはいえ、自然界の恵みべらぼうにある。なかでも、のどかな朝日は快いものである。ひるがえって人間、とりわけ私は、煩悩(ぼんのう)丸出しである。こんなバカな文章、いたく苦しんでまでして、書かなきゃよかったのかもしれない。わがお里の知れるところである。