六月二十四日(金曜日)、二度寝にありつけない。仕方なく起き出してきて、きょうもまた自分自身、まったく面白味のない文章を書き始めている。せっかく文章を書くのであれば、きのうの「沖縄、慰霊の日」にまつわる文章を書くべきであろう。テレビニュースの伝えるところによれば、当時の住民の四人に一人が犠牲になったという。犠牲とは死者である。なんと、つれない言葉であり、何たる真実隠しとも言える表現であろうか。私はあらためて、言葉の限界、報道の限界を知らされた気分に陥っていた。そして、生きている身としての、自分ながらの償いの仕方を模索していた。何にもならないけれど、いたたまれない気持ちのせめての罪償いであり、わが詫びの仕方だったのである。さて、目覚めて寝床にあって私は、常に枕元に置く電子辞書を手に取り、仰向けで次々に見出し語を変えた。たぶん、亡き父の面影が彷彿としていたせいあろうか。イの一番に、父と歌っていた『箱根八里』の歌詞の一部を浮かべていた。父と私は、共に歌詞の全編は知らなかった。互いが音痴のせいで、この歌のみならず歌そのものに、無頓着を決め込んでいたせいであろう。歌っていたのは、出だしのこの部分だけである。「箱根の山は天下の険 函谷関も物ならず 万丈の山 千仭の谷 前に聳え 後ろに支う」。これだけでも私は、見出し語を何度か変えた。険には「天下の嶮(けん)」と付記されていた。嶮は難しい漢字である。嶮を調べた。「山が高くけわしいこと。けわしい所」。函谷関は、孟嘗君や鶏鳴狗盗の四字熟語で、知ってはいる。けれど、復習を試みた。函谷関:中国河南省北西部にある交通の要地。新旧二関があり、秦代には霊宝県、漢初、新安県の北東に移された。河南省洛陽から潼関に至る隘路にある。古来、多くの攻防戦が行われた。次には、これまた分っているけれど、あえて「物ならず」を見出し語にした。説明書きには、たいしたことではない。もんだいにならないと、ある。結局、中国・秦代にあった函谷関と比べても、箱根の山の険しさ、威容を誇らしげに歌っていたのである。その証しを、ネット上の学びで確認できたのである。先ほど、私はネット上で歌詞全編を見ながら、曲をハミングした。ここには歌詞の全容は書けないけれど、全編が勇ましく難しい言葉の羅列だったのである。だから、難しい言葉のすべてを辞書調べすれば、半日がかりにもなりそうである。最後に、これまた知りすぎている成句のお浚いを試みた。「雉も鳴かずば撃たれまい。よけいなことを言ったばかりに災いを招くことのたとえ。キジの雄は「ケンケーン」と甲高く鳴く。草むらにひそんでいるキジも、一声鳴けば所在を知られ、あっさり猟師に仕留められてしまうだろう。」普段、私はこの成句をわが身に照らし、こう読み替えている。「文章を書かなければ、恥をかいて、人様にあざ笑いされることもあるまい」。一度目覚めて、こんなことばかりを浮かべているようでは、もとより二度寝にありつけるはずはない。わが掲げる生涯学習とは、常に苦悶と抱き合わせである。二度寝にありつけず苦しむようでは、そろそろ身の程をわきまえるときなのかもしれない。まったく面白味のない文章は、もちろん自分自身にもひどく堪えている。まして、読んでくださる人のつまらなさは、追って知るべきである。「追って知るべき」、また電子辞書を開いている。梅雨の夜明けはぐずついて、雨模様である。わが気分はぐずぐず、さ迷っている。三日続けて、まったく代り映えのしない、同様の結文である。