文章断ちを恐れての、いやずら書き

五月二十九日(日曜日)、すでに夜は、煌煌、満々と明けている。このところの長いずる休みを断って、きょうぐらいは何かを書かなければ、もはやこの先の執筆は、沙汰止みになりそうである。かてて加えて、肝心要のパソコンの使い方も忘れそうである。こんな恐怖に慄いてどうにか、パソコンを起ち上げている。もとより渋々状態であり、「引かれ者の小唄」の心境とは、ほど遠いものがある。せっかく咄嗟に浮かんだ成句だから、電子辞書を開いてお浚いを試みる。「引かれ者の小唄」:負け惜しみで強がりを言うこと。「引かれ者」とは、処刑のために刑場へ引かれていく者。その罪人が平気を装って、小唄を歌う意から。もちろん、現在のわが心境とは、何ら、繋がりはない。ただ、ちょっとだけ難解な、成句の復習を試みたにすぎない。きのうのテレビニュースは、かつての「日本赤軍」最高幹部、某女性の刑期終えを伝えていた。二十二年間の獄中生活だったという。この間、四度、がんの手術が行われたという。風貌を老いの姿に替えた某女性の心境など、もちろん私は知るよしない。ただ、映像に観る姿は、街中の人出の中で見る、買い物回りの同年齢の女性たちの姿とまったく変わりない。かつてのしでかしをとことん、悔いていてくれるであろうか。悪徳きわまりない事件をかんがみれば、刑期終えなど望まず、悔い疲れてくれてもいいのかもしれない。人様の人生には、もちろん測り知れないものある。「人のふり見てわがふり直せ」。こちらは、電子辞書を開くまでもなく、日常的にわが身にふりかかる成句である。何ら実のないこの文章でも、あしたへ繋がれば儲けものである。ただ、私にかぎらず人様すべて人生は、一先は藪の中である。「明日は明日の風が吹く」と、うそぶくことができないのは、わが生来の小器ゆえである。