わがなさけない、懺悔

 きのうは苦心惨憺しながら、だらだらと長い文章を書いた。もちろん、疲労困憊に見舞われた。きわめて独り善がりの文章だったゆえに、読んでくださる人は限られる。もとより、痛しかゆしのところである。それゆえ、本来の掲示板から背くところもまた、大ありだった。恥じて、きょう(六月十三日・月曜日)は、短く何を書こうか? と、思う。ところが、何らのネタなく、起き立のわが心は悩んでいる。
 文章とは言えないこんなものでも、唯一、心が満たされていることがある。それは、大沢さまから賜った「前田さん、なんでもいいから書いてください」という、お言葉である。ところが、私は応えきれていない。いや、かなり曲解し、大沢さまの真意とは、大外れである。顧みれば、大沢さまの「なんでもいいから書いてください」というお言葉は、今やはるかに遠いわが児童時代の渕上先生のお言葉へ遡(さかのぼ)る。大沢さまのお言葉同様に、当時の渕上先生のサゼスチョン(指図、指示、示唆)もまた、易しそうできわめて困難だった。
 うら若く見目好い(美しい)、ご担任の渕上先生(現在、恩師、平様)は、わが小学校一年生、そして持ち上がりの二年生にあって、よく「綴り方教室」という、授業をされた。まさしく、わが人生行路における、文章書きの手始めであった。そのときは、ちょっぴり恨みこそすれ、こうは思わなかった。しかし、顧みれば「綴り方教室」は、わが文章書きの確かなありがたい原点だったのである。渕上先生の指図にあっては、あらかじめ題が決められているものと、気ままになんでもいいから自由に書いていいものとに、分かれていた。ところが、私には後者すなわち自由題こそ厄介で、ほとほと困り果てていた。思えばこのときの私は、創作文が書けないという現在のなさけない態様を、さらけ出していたのである。私は途方に暮れて、鉛筆の文字どおりの鉛の芯を舐め舐めしながら、白紙の原稿用紙にじっと目を落としたり、廊下や窓の外の運動場をちょろちょろと、眺めていた。「何でも書いていいという自由題」、また「なんでもいいから書いてください」という、両様の優しい言葉とは裏腹に、私は常に文章書きに手を焼いている。
 きょうは、尻切れトンボのままに、意識してここで書き止めである。確かに、きのうよりわずかには短いけれど、またしても書き殴りの文章は、だらだらと長くなってしまった。窓の外のアジサイは、日に日に彩(いろどり)を変えては、色濃くなり始めている。以下は、アジサイにちなんでの付け足し文である。渕上先生から「みなさん、きょうのお題は『アジサイ』です」と言われても、このときの私には、すらすらと書けるはずもなかった。なぜなら私が、アジサイが「この世の花」と知ったのは、ふるさとを離れて関東地方に住むようになってからである。当時の私は、校舎周りや、内田村内(うちだむらうち)にあって、アジサイを見たことなど、まったくなかったのである。いや私は、アジサイはもちろんのこと、花などにはまったくの無関心を決め込み、もっぱら手当たりしだいに野イチゴや野辺の生り物の食いしん坊に明け暮れていたのである。