きょうも、実のない書き殴り

 六月十日(金曜日)、まがうことない梅雨空の夜明けが訪れている。今のところ関東地方の梅雨空は、大過なく梅雨明けへ向かって、きょうをきのうに替えている。しかし、あしたのことはわからない。人の世は、一先は闇の中であり、天災もまた、忘れたころというより、絶え間なくやって来る。お釈迦様の言葉を一言借りれば、確かに人の世、なかんずく現世は、「無常」と言えるであろう。
 このところ、新型コロナウイルスにまつわるメディアニュースは、いくらか薄れがちである。パチパチと両手を叩きたいところだけれど、もちろん早や合点することはできない。なぜなら、すっかり鳴りを潜めたわけではなく、今なお大勢の感染者や、それによる死亡者が伝えられてくる。収束が近いように思えるが、実際のところはメディアの報道慣れ、あるいは報道疲れみたいなものであろう。だから国民は、ゆめゆめ油断はならずと、なお自覚や自制をしなければならない。
 もとより、メディア報道には身勝手というか、我田引水のところがある。それは、「熱病の如く、煽りにあおって、熱冷ましの如く、さっと引く」という、習性である。すなわち、メディア報道には、社会の木鐸(ぼくたく)という称号を隠れ蓑にして、「飯の種」を探しては煽り続けるところがある。結局、人の世は他人(ひと)まかせにはせずに、わが身は自身で守らなければならない。
 かつての私は、いくらか心構えをして文章を書いていた。ところがこのところの私は、寝起きの書き殴り、あるいは時に急かされて、走り書きで書いている。わが無能のせいで、文章の出来不出来にはそんなに差はないけれど、やはり書き殴りや走り書きの文章には、やりきれない気分横溢である。きょうの文章は、三つ巴にあっては書き殴りの典型である。走り書きをするまでもなく、朝御飯の支度までは、まだたっぷりと余裕時間を残している。梅雨空は一転、朝日に輝いている。私は、のんびりと窓の外のアジサイを眺めている。