11月28日(木曜日)。きのうに続いて、ほぼ定時(5時)の起き出しにある。これによりこれまたきのう同様に、執筆時間の余裕にありついている。きのうは、久しぶりに卓球クラブの練習へ出向いた。ところが、久しぶりのせいで疲れ果てた。しかし逆に、就寝時にはその疲れが効果を表して、ぐっすり眠れて起き立ての気分はきわめて良好である。まさしく僥倖、「棚から牡丹餅」が落ちてきた気分にある。一方で私は、ぐじゃぐじゃ気分に憑(と)りつかれて起き出している。その一つはこうである。かつてのわが生涯学習にはまだ勢いがあった。ところが現在は、「風前の灯火(ともしび)」さえもはやチョロ火になり、今では燃えカスさながらにある。素人書きの私にすれば、これまで途方もなく長いあいだ文章を書き続けてきた。筋トレは続けていると、やがては効果が顕(あらわ)れ、筋肉モリモリになる。ところがわが文章には、一向に上達の験(しるし)が現れない。挙句、わが心中には常に、嘆息あるいは「草臥れ儲け」だけの切ない気分が横溢している。世の中には鍛錬や努力を続けていれば、おのずから結果はともなって(ついて)くるという、励ましの言葉がある。しかしながら、わが長年の文章書きには、この言葉は埒外(らちがい)にある。わが生涯の良友(伴侶)は、かつては分厚い国語辞典であり、続いては手軽な電子辞書、そしてこの先は、スマホの便利さに置き換わるであろう。スマホに移行中にあって現在は、電子辞書およびスマホの共用にある。知りすぎている日常語、「馬子(まご)にも衣装」を見出し語において、電子辞書を開いた。【馬子にも衣装】:「どんな人間でも外面を飾れば立派に見えることのたとえ」。この成句をわが文章に用いれば、他人様(ひとさま)からさずかるありがたいコメントやメッセージ、あるいはエールと言えそうである。すなわち、わが拙(つたな)い文章への飾り言葉であり、ちょっぴり箔(はく)をつけてもらっている言葉である。実際にはわが文章にたいし、大沢さまのコメントや、高橋弘樹様のエールがさずけられると、うれしさつのるものがある。半面、このうれしさは、わが文章が「這這(ほうほう)の体(てい)」で書いている証しでもある。だから余計、わが身に余るうれしさと、なお継続へのエネルギーの賦活にあずかっている。この文章は、さずけられるコメントやエールにたいする、感謝と御礼である。初冬の夜明けの空は、限りのない日本晴れで、私にエールを送っている。