未だ夜の静寂(しじま)にあって、目覚めとほぼ同時に起き出している。補聴器を嵌めた耳には、雨の音、風の音なく、肌身に寒さはまったくない。洗面と歯磨きを済まして、電気(電池)ひげ剃りで顔面のひげ(髭、鬚、髯)を剃り終え、パソコンを起ち上げている。ひげ剃りには片手に、手鏡を持っていた。老いさらばえて皺くちゃの顔面を見るのは辛かった。けれど、いい年をして悔やんでも、どうなることでもない。
早起きは三文の徳とは言えない。山の「早起き鳥」に代わる、愚かな起き出しである。しかしながら、一文くらいの徳はある。それはたっぷりと時間があるために、キー叩きに焦ることがないことである。こんなのんびりとした心境をたずさえて私は、パソコンを起ち上げる前にはいつもよりもっと長く、机上カレンダーに眼を凝らしていた。私にとって机上カレンダーは、机上に置く電子辞書と共に、わが文章書きにおける大切な役割をになっている。なぜなら、私にとっての机上カレンダーは、単なる曜日の確認にとどまらないところがある。それはネタ探し、すなわち取材行動をしない、代わりの役割である。
机上カレンダー、実際には手のひらサイズほどにすぎない。それでもそれには、椅子に座したままにネタにありつけるところがある。なぜなら、これには単に曜日の羅列だけではなく、日本社会における日日(にちにち)の「行事」(歳時)が記されている。ゆえに、じっと眺めていると、カレンダーが紡ぐ「人生物語」が髣髴(ほうふつ)するところがある。これこそ、机上カレンダーにさずかる、わがネタ探しである。
さてきょうは、滅多に出合えないネタにすがることができたのである。いや、滅多にと、言うには誤りがある。なぜならきょうは、一年に一度(十二か月、紙十二枚)、記されている「立冬」(十一月七日・木曜日)である。立冬、あえて机上の電子辞書にすがることもないけれど開いた。
「立冬:二十四節気の一つ。太陽の黄経225度の時。冬の始め、太陽暦の11月7日頃」
太陽の営みのことなど、安本丹(あんぽんたん)の私には、まったく珍紛漢(ちんぷんかん)だけれど、きょうにかぎればこんな恩恵に浴している。それはネタ無し補う、格好のネタにありついていることである。立冬とは、夏が過ぎてこのあと、初秋、中秋、そして晩秋へとめぐってきた秋が終わり、いよいよ冬への季節変わりを表している。寒さ嫌いの私は、立冬の文字を眺めているだけで、心象風景は寒々しくなる。いよいよ冬の季節に入り、この先のわが日暮らしは、どうなるであろうか。きょうから戦々恐々するばかりである。
きのうの文章にあって私は、晩秋という語呂の良さと、実際にも気候の良い晩秋を称えて、未練がましく表題だけに「晩秋の空に映える、柿の生る風景」と記したのである。立冬を境にしてこの先のわが日暮らしは、おのずから「つらい、冬物語」になる。立冬、この先の寒さを慮(おもんぱか)れば、必ずしも格好のネタとは言えない。それでも机上カレンダーにすがり文章は絶えず、ようよう結びへたどりつくことができたのである。
夜明けの空は淡い彩雲を抱いて、立冬の日本晴れである。